第2回 金印はホンモノ?

 日中の交流はいつから始まったのでしょうか。
 秦代(西暦前221~206年)の徐福伝説のようなものは別として、史料と物証の両面から明らかなのは倭の奴国が後漢に送った使節でしょう。中国の正史の1つ『後漢書』には、建武中元2年(西暦57年)に倭の奴国が貢ぎ物を持って朝貢し、光武帝が印綬を下賜したことが記されています。
また、この時下賜された「漢委奴國王」という金印も、江戸時代に九州の志賀島で発見され、現在国宝として福岡市博物館に所蔵されています。
 この金印については発見直後から真偽をめぐる論争が続いてきましたが、20世紀後半、中国でこれとよく似た特徴をもつ漢(西暦前206~220年)代の印が発見されたことで、議論は下火となっていました。図は「漢委奴國王」の金印と、1981年に江蘇省で発見された「廣陵王璽」です。
 「廣陵王璽」は、永平元年(西暦58年)に廣陵王に改封された光武帝の九男・劉荊に与えられたもので、倭の使節が金印を下賜された翌年に当たります。大きさは両者とも縦、横2.3㌢。印文の字形や意匠も驚くほどよく似ています。
 ところが近年、古代文学研究者の三浦佑之氏が『金印偽造事件』という本を出し、再びニセモノ説を唱えたことで議論が再燃することになりました。
 三浦氏によれば、この金印は福岡藩が東西2つの藩校を開設した際、西の甘棠館の祭主となった亀井南冥が、東の修猷館の世襲儒役の館長を出し抜くために、古印の模倣を得意とする高芙蓉や、考証家の藤貞幹とともに偽造したものといいます。工芸文化研究所の鈴木勉氏も、篆刻技法の違いからこのニセモノ説を支持しています。
 一方、考古学者の石川日出志氏は、金印の金属組成や他の漢印との比較からホンモノ説を唱えています。
 真偽はいずれ科学が明らかにしてくれるでしょう。その結論がどうあれ、倭の使者が2500㌔も離れた漢の都を訪れたことに間違いはありません。それが正史に記載されたのも、この遠来の使者の訪問が東アジアの秩序回復を象徴する出来事だったからでしょう。倭の使者も漢の都の繁栄ぶりを見て、中国文明の偉大さに目を見張ったはずです。
 日中の2000年にわたる交流の歴史はここに始まったのです。

▼「漢委奴國王」の金印(左)と1981年に江蘇省で発見された「廣陵王璽」(右)

法政大学国際文化学部鈴木靖研究室