日中交流の史跡と文化

日中交流の史跡と文化

はじめに 朱舜水が残した友好の遺産

はじめに 朱舜水が残した友好の遺産  魯迅の旧友だった許寿裳は、日本留学時代の魯迅について、こんなエピソードを紹介しています。  魯迅が仙台で医学を学んでいた時のこと。東京へ戻る途中にふと立ち寄った水戸で、彼は意外な経験をしました。  水戸...
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第1回 わたしの祖先は縄文人?

日中文化交流史 第1回 わたしの祖先は縄文人?  大学で日中文化交流史という授業を担当しています。その第一回にこんなクイズを出しています。二人のアジア人女性の写真をスクリーンに映してどちらが日本人かを当てるのです。学生の選択はほぼ半々。中国...
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【コラム】日本人の起源に関する三重構造説

【コラム】日本人の起源に関する三重構造説 小中彩音  現代日本人はいつ、どのようにして誕生したのでしょうか。  現代日本人の起源については、1991年に埴原和郎はにはら かずろう氏が提唱した二重構造モデル(Dual Structure Mo...
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第2回 金印はホンモノ?

日中の交流はいつから始まったのでしょうか。  秦代(西暦前221~206年)の徐福伝説のようなものは別として、史料と物証の両面から明らかなのは倭の奴国が後漢に送った使節でしょう。中国の正史の1つ『後漢書』には、建武中元2年(西暦57年)に倭...
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第3回 邪馬台国と卑弥呼の時代

日中文化交流史 第3回 邪馬台国と卑弥呼の時代 魏の使節が見た古代日本  『三国志』の時代、魏の景初3(239)年のこと。邪馬台国の卑弥呼が魏に使節を派遣し、明帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを下賜されました。  金印はまだ発見され...
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【コラム】壱岐島原の辻遺跡と「貨泉」

青木観雪  邪馬台国を訪れた魏の使節の足跡を伝える遺跡の一つに、壱岐島の原の辻はるのつじ遺跡があります。ここには弥生時代の環濠集落跡があり、『魏志倭人伝』が記す「一支国」の王都跡ではないかと考えられています。  『魏志倭人伝』によると、「一...
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第4回 漢字がやってきた

日中文化交流史 第4回 漢字がやってきた 古墳時代の渡来人とは?  埼玉県行田市の稲荷山古墳から、1968年、1本の鉄剣が出土しました。その後の調査で剣の両面に115字の銘文があることがわかり、これが「獲加多支鹵ワカタケル大王」に仕えた人物...
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【コラム】金錯銘鉄剣と中国系渡来人

新井梨紗・清水玲奈  稲荷山いなりやま古墳は、埼玉古墳群の中で最古の古墳で、その時期は5世紀頃とされています。墳丘は全長120メートル、高さ20メートルほどで、県内で3番目の規模を誇る前方後円墳です。墳丘の頂上に登ることができ、周囲の古墳を...
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第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?

第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?~中国系渡来人と仏教  589年、隋が中国全土を統一し、長く続いた南北分裂の時代に終止符が打たれました。倭は隋との外交交渉のため4回にわたって遣隋使を派遣します。このうち第2回遣隋使(607年)の国書にあっ...
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【コラム】仏教伝来を伝える遺跡群―雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)と向原寺(豊浦寺跡地)

後藤由貴乃  中国の南北朝時代、西域から伝えられた仏教は、やがて東アジア各地に広まっていきました。日本に仏教が伝えられたのは、6世紀ごろ。その伝統は葬儀での諸習俗をはじめ、お盆やお彼岸など、いまも人々の暮らしの中に息づいています。  そんな...