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日中交流の史跡と文化

第2回 金印はホンモノ?

日中の交流はいつから始まったのでしょうか。  秦代(西暦前221~206年)の徐福伝説のようなものは別として、史料と物証の両面から明らかなのは倭の奴国が後漢に送った使節でしょう。中国の正史の1つ『後漢書』には、建武中元2年(西暦57年)に倭...
日中交流の史跡と文化

第3回 邪馬台国と卑弥呼の時代

日中文化交流史 第3回 邪馬台国と卑弥呼の時代 魏の使節が見た古代日本  『三国志』の時代、魏の景初3(239)年のこと。邪馬台国の卑弥呼が魏に使節を派遣し、明帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを下賜されました。  金印はまだ発見され...
日中交流の史跡と文化

【コラム】壱岐島原の辻遺跡と「貨泉」

青木観雪  邪馬台国を訪れた魏の使節の足跡を伝える遺跡の一つに、壱岐島の原の辻はるのつじ遺跡があります。ここには弥生時代の環濠集落跡があり、『魏志倭人伝』が記す「一支国」の王都跡ではないかと考えられています。  『魏志倭人伝』によると、「一...
日中交流の史跡と文化

第4回 漢字がやってきた

埼玉県行田市の稲荷山(いなりやま)古墳から、1968年、1本の鉄剣が出土しました。その後の調査で剣の両面に115字の銘文があることがわかり、これが「獲加多支鹵ワカタケル大王」に仕えた人物のものであることが分かりました。ワカタケル大王とは雄略...
日中交流の史跡と文化

【コラム】現代に姿を現した古墳人

現代に姿を現した古墳人  古墳時代の日本人は、どんな姿をしていたのでしょうか。ここでは、火山の噴火で封印された古墳時代の遺跡と、そこから発見された古墳人について紹介しましょう。  群馬県にある榛名山はるなさんは、美しいリゾート地です。山頂に...
日韓交流の歴史と文化

【コラム】湯島聖堂と歴聖大儒像

上野公園にある清水観音堂から西郷隆盛銅像の一帯は、むかし忍岡(しのぶがおか)と呼ばれていました。寛永9年(1632)、忍岡の林羅山の別宅に、孔子を祀る先聖殿が建てられました。儒教の普及に熱心だった尾張藩主徳川義直が寄進したものです。翌年、羅...
日中交流の史跡と文化

【コラム】渡来人(作成中)

【コラム】渡来人  平安京に都を移した桓武天皇は、延暦18年(799)、諸氏族に本系帳の進上を命じました。本系帳とは、各氏族の由来と系譜を記した家系図です。弘仁6年(815)、こうして集められた本系帳をもとに、諸氏族の由来と系譜をまとめた『...
日中交流の史跡と文化

第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?

第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?~中国系渡来人と仏教  589年、隋が中国全土を統一し、長く続いた南北分裂の時代に終止符が打たれました。倭は隋との外交交渉のため4回にわたって遣隋使を派遣します。このうち第2回遣隋使(607年)の国書にあっ...
日中交流の史跡と文化

【コラム】隋の使節を迎えた宮殿―雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)

【コラム】隋の使節を迎えた宮殿 雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)  第二次遣隋使は隋との交渉を無事成功させました。「天子」という言葉に腹を立てた煬帝でしたが、遣隋使が帰国する際には、裴世清らを答礼使として倭に派遣したのです。当時隋は高句麗と対...
日中交流の史跡と文化

【コラム】遣隋使の謎

【コラム】遣隋使の謎  『日本書紀』などの日本側の記録によれば、遣隋使は女性天皇である推古天皇の時代に派遣されました。ところが、『隋書』倭国伝などの中国側の記録に見ると、開皇20年(600年)に派遣された第一回遣隋使の使者は、王の姓は「阿毎...