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日中交流の史跡と文化

【コラム】唐人屋敷と興福寺・長崎新地中華街

山﨑穂波  唐人屋敷とは、1689年(元禄2年)、江戸幕府が現在の長崎市館内町に設けた唐人(中国人)居住区のことです。その広さは約9400坪、竹垣と堀に囲まれたその敷地内では、約2000人の唐人が滞在していたと言います。一つしかない出入口で...
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第16回 科学技術を伝える~『農政全書』と『天工開物』

「(日本との貿易で)中国人は砂糖で千パーセント儲け、オランダ人もほぼこれと同じくらいの利益を上げている」。モンテスキューが『法の精神』のなかでこう語ったように、江戸時代、鎖国政策による砂糖価格の高騰は、日本の経済を大きく圧迫していました。そ...
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【コラム】和砂糖問屋の石灯籠

小中彩音 柳原瑚子  18世紀、江戸時代の日本は「鎖国」の状況下にありました。「鎖国」と聞くと、日本人の海外渡航及び外国人の来訪を一切禁じるというイメージがあるかもしれませんが、制限貿易は継続されており、対馬は朝鮮、薩摩藩は琉球、松前藩は蝦...
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第17回 江戸時代の中国語ブーム

HSK(漢語水平考試)という中国政府公認の中国語能力試験があります。その受験者数は年々増加しているそうですが、実は江戸時代にも中国語ブームがありました。その火付け役となったのが、岡島冠山と荻生徂徠です。  冠山は、長崎の生まれ。少年時代、上...
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【コラム】バイリンガル狂言

田中美有・若尾莉奈  倭寇が猖獗を極めていた室町時代、日本の各地には、中国などから拉致されてきた人々が、労働力として駆使されていました。1420年、朝鮮から回礼使として日本を訪れた宋希璟は、日本滞在中、中国から拉致されてきた2人の人物に会っ...
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【コラム】浮世草子『世間学者気質』と黄檗山萬福寺

鈴木靖  岡島冠山が京都に移り、唐話の教本を出版すると、京都でも中国語ブームが巻き起こりました。明和5年(1768)に出版された浮世草子『世間学者気質せけんがくしゃかたぎ』には、こうした中国語ブームを象徴するような人物が登場します。人物の名...
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第18回 島津重豪と琉球王国

江戸時代、長崎とともに日中交流の懸け橋となっていたのが琉球王国です。  14世紀末、明の朝貢国となった琉球は、1609年、薩摩の侵攻を受け、その支配下に入ります。しかし薩摩がその実態を隠したために、琉球はその後も朝貢を続け、日中を結ぶ交流の...
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【コラム】福州市と那覇市の交流

沖縄に北山、中山、南山の三勢力が鼎立していた三山分立時代、中山王察度のもとに中国から使節が派遣されてきました。モンゴルの支配を脱し、明朝が開国したことを知らせる使節です。  察度はさっそく弟の泰期らを明に派遣しました。明の洪武5年(1372...
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第19回 中国の初代最高法院院長になった清国留学生

20世紀初め、清から多くの若者が日本に留学しました。その1人に中国の初代最高法院院長(最高裁長官)となった沈(しん)鈞儒(きんじゅ)(1875―1963)がいます。  沈鈞儒は、29歳の時、科挙の最終試験に合格し、進士の称号を得ました。当時...
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第20回 殷王朝の実在を証明した日中の研究者

殷王朝は実在したのか?20世紀の初め、学者の間でこの問題が真剣に議論されたことがありました。1909年、東大教授の白鳥(しらとり)庫吉(くらきち)が、「中国古伝説の研究」という論文を発表し、殷王朝以前の歴史は伝説に過ぎないと主張したのです。...