1.アイス・ブレーキング
13:10~13:30 合宿での活動について
2.輪読発表とグループワーク
13:30~14:00 輪読発表
【課題図書】Ⅰ 日本列島の原始社会と朝鮮半島
14:00〜14:20 グループワーク
- 課題図書を読んで興味を感じたところ、疑問に思ったところ
14:20~14:30 休憩
3.新聞発表とグループワーク
14:30~14:50 新聞発表
14:50~15:10 グループワーク
- 中国はなぜ「世界一安全な国」をアピールするのか?
15:10〜15:15 休憩
4.補足説明
15:15~16:00
以下のコラムを読んだ後、あなたは自分の祖先はどこから来たと思いますか。
▼縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷
【輪読図書関連年表】
西暦 | 国・地域 | 出来事 | ||||||
中国 |
朝鮮 |
日本 | ||||||
57 | 後漢 | 高 句 麗 |
馬韓 | 辰韓 | 弥生時代 | 倭の奴国王が後漢に朝貢し、「漢委奴国王」の金印を下賜される | ||
220 | 魏 | 曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け、魏を建国 | ||||||
221 | 蜀 | 劉備が漢の正統を継ぐため、蜀を建国 | ||||||
229 | 呉 | 孫権が皇帝に即位し、呉を建国 | ||||||
239 | 古墳時代 | 邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢 | ||||||
240 | 邪馬台国の卑弥呼が再び魏に上表 | |||||||
243 | 邪馬台国の卑弥呼が三たび魏に使節を派遣 | |||||||
245 | 魏が邪馬台国の卑弥呼に黄幢(軍旗)を下賜 | |||||||
247 | 魏が帯方郡から邪馬台国に張政を派遣 | |||||||
263 | 魏が蜀を滅ぼす | |||||||
265 | 司馬炎が魏の曹奐から禅譲を受け、西晋を建国 | |||||||
266 | 邪馬台国の壱与が西晋に使いを送る(謎の四世紀の始まり) | |||||||
280 | 西晋 | 西晋が呉を滅ぼし、中国全土を統一 | ||||||
308 | 五 胡 十 六 国 |
西晋の懐帝が匈奴の首長劉聡に殺され、西晋が滅亡 | ||||||
313 | 高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす | |||||||
317 | 東晋 | 司馬睿が建業(現在の南京)で晋王朝を復興(東晋) | ||||||
百済 | 新羅 | 4世紀初め、百済、新羅が建国 | ||||||
346 | 百済で近肖古王が即位 | |||||||
356 | 新羅で奈勿王が即位 | |||||||
372 | 百済が東晋に入朝し、冊封を受ける 前秦から高句麗に僧が派遣され、仏像と経文を伝える 百済の使者久氐が来朝し、服属のしるしに七支刀を献上(神功皇后52年を干支二運繰り上げ説により120年繰り下げ) |
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384 | 東晋から百済へ仏教が伝わる | |||||||
391 | 倭が高句麗を攻撃(「広開土王碑」) | |||||||
413 | 倭が東晋に使節を派遣(謎の四世紀終了) | |||||||
414 | 高句麗が好太王の事績を記念して広開土王碑を建立 | |||||||
420 | 宋 | 劉裕が東晋の恭帝から禅譲を受けて、南朝宋を建国 | ||||||
439 | 北魏 | 北魏の太武帝が華北を統一 | ||||||
475 | 百済が漢山城(ソウル)から熊津城(公州)へ遷都 | |||||||
479 | 斉 | 蕭道成が南朝宋の順帝から禅譲を受け、南朝斉を建国 | ||||||
500 | 新羅で智証王が即位 | |||||||
501 | 百済で武寧王が即位 | |||||||
502 | 梁 | 蕭衍が南朝斉の和帝から禅譲を受け、南朝梁を建国 | ||||||
514 | 新羅で法興王が即位 | |||||||
527 | 筑紫の国造磐井が反乱を起こす(磐井の乱) | |||||||
529 | 倭が近江毛野を安羅国に派遣 | |||||||
532 | 金官国が新羅に降伏し、併合される | |||||||
534 | 西魏 | 東魏 | 北魏が東魏と西魏に分かれる | |||||
538 | 百済が熊津城(公州)から泗泚城(扶余)へ遷都 百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典が送る(『上宮聖徳法王帝伝』による仏教公伝) |
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541 | 百済の都泗沘城で任那復興会議が開催される | |||||||
544 | 百済の都泗沘城で任那復興会議が開催される | |||||||
550 | 北斉 | 東魏の実権者高洋が北斉を建国 | ||||||
552 | 百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典が送る(『日本書紀』による仏教公伝) | |||||||
554 | 百済の聖王が新羅との戦いで戦死 | |||||||
557 | 北周 | 陳 | 西魏の実権者宇文氏が北周を建国 南朝梁の重臣陳霸先が敬帝から禅譲を受け、陳を建国 |
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562 | 新羅が大加耶国を滅ぼし、加耶全体を併合(「任那」の滅亡) | |||||||
570 | 高句麗が倭に初めて使者を送る | |||||||
577 | 北周が北斉を滅ぼす | |||||||
581 | 隋 | 北周宣帝の外戚楊堅が政権を奪い、隋を建国 | ||||||
587 | 崇仏派の蘇我馬子らが廃仏派の物部守屋を討伐(丁未の乱) | |||||||
589 | 2月、隋が南朝陳を滅ぼし、中国全土を統一 | |||||||
592 | 飛鳥時代 | 推古天皇が即位し、明日香に都を置く | ||||||
595 | 高句麗から慧慈が渡来し、聖徳太子の仏教・政治・外交のブレインとなる | |||||||
596 | 蘇我氏が法興寺(現在の飛鳥寺)を建立(高句麗の建築様式の影響?) | |||||||
598 | 隋の文帝が第一回高句麗遠征 | |||||||
600 | 第一回遣隋使派遣(『隋書』倭国伝) 倭が新羅に出兵 |
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601 | 倭が高句麗・百済に使節を派遣して新羅攻撃を協議 | |||||||
607 | 第二回遣隋使派遣 | |||||||
608 | 隋が答礼使として裴世清を倭に派遣 裴世清を送るため、第三回遣隋使派遣。高向玄理、南淵請安、僧旻、倭漢福因、恵隠らを隋に留学させる |
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612 | 隋の煬帝が第二回高句麗遠征 | |||||||
613 | 隋の煬帝が第三回高句麗遠征 | |||||||
614 | 隋の煬帝が第四回高句麗遠征 | |||||||
618 | 唐 | 李淵が隋を滅ぼして唐を建国 | ||||||
623 | 新羅から倭に仏像が送られ広隆寺に安置される(広隆寺の弥勒菩薩像か?) | |||||||
630 | 倭が第一回遣唐使を派遣 | |||||||
632 | 第一回遣唐使犬上御田鍬を送って、高表仁が来日するが、礼を争って帰国 | |||||||
640 | 第二回遣隋使とともに渡海した高向玄理が、新羅を経て32年ぶりに帰国 | |||||||
642 | 高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こす 百済の義慈王が新羅に侵攻 新羅が金春秋(のちの武烈王)を高句麗に派遣 |
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643 | 新羅が唐に使者を送り、救援を要請 | |||||||
645 | 2月、唐の太宗が第一回高句麗遠征 6月、倭で蘇我入鹿が誅殺され(乙巳の変)、高向玄理と僧旻を国博士に任ずる |
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646 | 倭が高向玄理を新羅に派遣 | |||||||
647 | 新羅が金春秋(のちの武烈王)を倭に派遣 唐が第二回高句麗遠征 |
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648 | 唐が第三回高句麗遠征 新羅が金春秋(のちの武烈王)を唐に派遣 |
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649 | 新羅が唐の衣冠礼服の制度を採用 | |||||||
650 | 新羅が独自の年号を廃し、唐の年号を採用 | |||||||
651 | 新羅の貢調使が唐風の官服で来朝、大宰府は非礼として追い返す | |||||||
653 | 倭が第二回遣唐使を派遣 | |||||||
654 | 倭が第三回遣唐使を派遣 新羅の武烈王(金春秋)即位 高向玄理没 |
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659 | 倭が第四回遣唐使を派遣、使節は長安に抑留される | |||||||
660 | 唐・新羅連合軍が百済を攻撃、義慈王が降伏し百済滅亡 | |||||||
661 | 新羅の武烈王(金春秋)没 倭が百済の遺臣鬼室福信らの要請により、人質となっていた余豊璋を五千の兵をつけて帰国させる |
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663 | 倭が百済復興を支援するため、上毛野稚子を将軍とする二万七千の軍勢を派兵(白村江の戦) | |||||||
664 | 倭が対馬・壱岐・筑紫に防人と烽火を置く | |||||||
665 | 倭が第五回遣唐使を派遣 | |||||||
668 | 唐・新羅連合軍の攻撃により高句麗滅亡 | |||||||
669 | 倭が第六回遣唐使を派遣(こののち33年にわたり遣唐使の派遣を中断) | |||||||
670 | 新羅が旧百済領に侵攻し、朝鮮半島で羈縻政策を進める唐と対立(羈縻政策とは、帰順した諸民族地域に羈縻州を置き、都督府の督察下での自治を認める間接統治策) | |||||||
672 | 倭で天智天皇の後継をめぐって内戦が起こり(壬申の乱)、勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となり、皇后であとを継いだ持統天皇とともに唐の律令制度を導入 | |||||||
676 | 統一新羅 | 新羅が伎伐浦で唐軍を破り、旧百済領全域を支配し、唐の羈縻政策を排除 | ||||||
698 | 高句麗の遺民と靺鞨人が渤海を建国 | |||||||
702 | 倭が国号を日本と改め、第七回遣唐使を派遣 | |||||||
710 | 奈良時代 | 3月、元明天皇が藤原京から平城京へ遷都(奈良時代の始まり) | ||||||
720 | 『日本書紀』が成立 | |||||||
753 | 遣唐大使の藤原清河が唐の朝廷での朝賀の際、新羅と席次を争う(争長事件) | |||||||
759 | 倭が新羅遠征を計画 | |||||||
779 | 天皇が「表を将たざるものの境に入ら使むべからず」という詔を出し、新羅の使節を追い返す(新羅との国交断絶) | |||||||
784 | 11月、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都 | |||||||
794 | 平安時代 | 10月、桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都(平安時代の始まり) | ||||||
828 | 新羅商人張保皐(790-841)が大宰府に来航 | |||||||
838 | 最後の遣唐使として、藤原常嗣や円仁らが渡唐 | |||||||
847 | 円仁が新羅の商船に乗って帰朝 | |||||||
892 | 後百済 | 甄萱が後百済を建国 | ||||||
901 | 弓裔が後高句麗を建国 | |||||||
907 | 遼 | 五代十国時代 | 唐が滅ぶ | |||||
918 | 後高句麗で王建が王位を奪い、高麗を建国 | |||||||
922 | 後百済から使節が来朝するが、通交を拒否 | |||||||
926 | 渤海が契丹族に滅ぼされる | |||||||
929 | 後百済から再び使節が来朝するが、通交を拒否 | |||||||
935 | 高麗が新羅を滅ぼす | |||||||
936 | 高麗 | 高麗が後百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一 | ||||||
937 | 高麗から使節が来朝するが、通交を拒否 | |||||||
939 | 日本で平将門の乱が起こる 高麗から再び使節が来朝するが、通交を拒否 |
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