1.合宿について
13:10~13:20 合宿の日程・担当者決定
2.共同研究
13:20~13:30 共同研究
3.輪読発表とグループワーク
13:30~14:00 輪読発表
【課題図書】Ⅲ 日本の成立と新羅・渤海――理念と現実
14:00〜14:20 グループワーク
- 課題図書を読んで興味を感じたところ、疑問に思ったところ
14:20~14:50 補足説明
【参考資料】
- 戦後の国宝第一号は made in Korea か?
日韓交流の歴史と文化「三つの半跏思惟像」 - 遣唐使は国書を持参したのか?
古瀬奈津子「日本人と中国人の相互認識」(日中歴史共同研究⑴ 古代・中近世史 第三部 日中両社会の相互認識と歴史的特質の比較)
日本の遣唐使が国書を持参したか、しなかったかについては議論がある。それは、日本と唐の間で交わされた国書が1通しか残されていないからである。その1通は、唐の文人政治家である張九齢の文集『唐丞相曲江張先生文集』巻七にある「日本国王に勅す書」である。唐の皇帝から外国に対して出される国書には3つの形式があったが、この「勅」の
形式はもっとも格下の文書様式であった。また、冒頭が「勅す日本国王 主明楽美御徳」で始まっている。「主明楽御徳」は「スメラミコト」であり、天皇を意味する。このことは、唐に対して、日本が天皇号を君主号としては使用していなかったことを示す。「スメラミコト」という天皇の和名を、唐には日本国王の名前と受け取られる可能性を期待して使用したのではないかと考えられている⑵。
一方、日本から唐皇帝への国書は1通も残されていない。日本からの国書は、臣下が皇帝に奉ずる上表形式であったと推測されている。日唐間で交わされた国書がほとんど残されていないのは、これらの国書の文書様式や内容が日本にとっては都合が悪いものであったために、日本国内では公にされることがなく、正史にも記録されなかったからだと考え
られている⑶。
〔注〕
⑴2005年4月の日中外相会談において、町村外務大臣(当時)が日中歴史共同研究を提案、2006年から2009年まで4回の全体会合が開かれ、2010年、両国委員による論文(報告書)が発表された。
⑵東野治之『遣唐使船ー東アジアのなかで』朝日新聞社、1999年
⑶同⑵
14:50~15:00 休憩
4.新聞発表
15:00~15:10 新聞発表
【新聞記事】
15:10〜15:20 グループワーク
- 【映像資料】「アイたちの学校」(髙賛侑監督、朝鮮学校の歴史と現状を描いた長編ドキュメンタリー映画)→予告編
- 朝鮮学校の所在地と学校数
朝鮮学校‥各種学校57校(北海道1・宮城1・福島1・東京11・神奈川5・埼玉1・千葉1・茨城1・群馬1・栃木1・愛知5・静岡1・長野1・岐阜1・三重1・大阪5・兵庫6・京都3・滋賀1・和歌山1・広島1・岡山2・山口1・愛媛1・福岡3、休廃校を除く)
〔参考〕韓国学校‥各種学校2校(東京1・大阪1)、一条校4校(大阪2・京都1・茨城1)の計6校 - 公的な支援制度の適用状況
高校無償化‥対象外、なお韓国学校は各種学校も対象
〔参考〕文部科学省「高等学校等就学支援金制度の対象として指定した外国人学校等の一覧」
幼保無償化‥対象外
地方自治体の助成金‥大阪や東京で支給凍結
【映像資料】「朝鮮学校補助金・高校無償化問題」(ドキュメンタリー映画『アイたちの学校』より) - 生徒数
朝鮮学校‥5223人(幼稚部から高級部までの合算) - 国際法上の問題点
『国際人権規約』‥1966年の第21回国連総会において採択され、1976年に発効。日本は1979年に批准。
「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)」
第二十七条 種族的、宗教的又は言語的少数民族が存在する国において、当該少数民族に属する者は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない。
【新聞発表関連年表】
西暦 | 出来事 |
2010 | 3月、国連人種差別撤廃委員会が報告書を公表し、高校無償化制度から朝鮮学校を除外する動きについて「懸念」を表明 4月、民主党政権が高校無償化制度導入を決定 9月、石原慎太郎都知事が、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会などの要請を受け、都内10校の朝鮮学校への「私立外国人学校教育運営費補助金」支給凍結(約2400万円) |
2011 | 3月、維新の会・松井一郎大阪府知事が、朝鮮学校への「大阪府外国人学校振興補助金」の支給凍結(約8400万円) |
2012 | 9月、大阪の朝鮮学校が大阪府及び大阪市に対して補助金不交付処分の取消し及び補助金交付を求めて提訴(朝鮮学校補助金訴訟) 12月、自民党第二次安倍晋三政権発足 |
2013 | 2月、政府が「拉致問題に進展がなく、朝鮮総連と密接な関係にある」として、高校無償化制度から朝鮮学校を対象外に この年、朝鮮学校を高校無償化の対象外としたのは違法として、東京、大阪、名古屋、広島、福岡の朝鮮学校と生徒らが国に処分の取り消しと損害賠償を求めて提訴(朝鮮高校無償化訴訟) |
2014 | 4月、高等学校等就学支援金制度(高校無償化)開始 |
2016 | 3月、文科省が朝鮮学校を各種学校として認可している28都道府県に対して「朝鮮学校に係る補助金交付に関する留意点について(通知)」を発出 |
2018 | 11月、大坂の朝鮮学校補助金訴訟で、最高裁が学校側の上告を棄却、敗訴確定 |
2019 | 10月、幼児教育・保育の無償化(幼保無償化)事業開始、朝鮮学校を対象外に |
2020 | 4月、私学の高等学校等就学支援金制度(高校無償化)の支給額を大幅拡大 |
2021 | 7月、広島の朝鮮高校無償化訴訟で、最高裁が学校側の上告を棄却。同種の5件の訴訟はいずれも学校側の敗訴確定 |
【輪読図書関連年表】
西暦 | 国・地域 | 出来事 | ||||||
中国 |
朝鮮 |
日本 | ||||||
57 | 後漢 | 高 句 麗 |
馬韓 | 辰韓 | 弥生時代 | 倭の奴国王が後漢に朝貢し、「漢委奴国王」の金印を下賜される | ||
220 | 魏 | 曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け、魏を建国 | ||||||
221 | 蜀 | 劉備が漢の正統を継ぐため、蜀を建国 | ||||||
229 | 呉 | 孫権が皇帝に即位し、呉を建国 | ||||||
239 | 古墳時代 | 邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢 | ||||||
240 | 邪馬台国の卑弥呼が再び魏に上表 | |||||||
243 | 邪馬台国の卑弥呼が三たび魏に使節を派遣 | |||||||
245 | 魏が邪馬台国の卑弥呼に黄幢(軍旗)を下賜 | |||||||
247 | 魏が帯方郡から邪馬台国に張政を派遣 | |||||||
263 | 魏が蜀を滅ぼす | |||||||
265 | 司馬炎が魏の曹奐から禅譲を受け、西晋を建国 | |||||||
266 | 邪馬台国の壱与が西晋に使いを送る | |||||||
280 | 西晋 | 西晋が呉を滅ぼし、中国全土を統一 | ||||||
308 | 五 胡 十 六 国 |
西晋の懐帝が匈奴の首長劉聡に殺され、西晋が滅亡 | ||||||
313 | 高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす | |||||||
317 | 東晋 | 司馬睿が建業(現在の南京)で晋王朝を復興(東晋) | ||||||
百済 | 新羅 | 百済、新羅が建国 | ||||||
372 | 百済が東晋に入朝し、冊封を受ける 前秦から高句麗に僧が派遣され、仏像と経文を伝える |
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384 | 東晋から百済へ仏教が伝わる | |||||||
391 | 倭が高句麗を攻撃(「広開土王碑」) | |||||||
414 | 高句麗が好太王の事績を記念して広開土王碑を建立 | |||||||
420 | 宋 | 劉裕が東晋の恭帝から禅譲を受けて、南朝宋を建国 | ||||||
439 | 北魏 | 北魏の太武帝が華北を統一 | ||||||
475 | 百済が漢山城(ソウル)から熊津城(公州)へ遷都 | |||||||
479 | 斉 | 蕭道成が南朝宋の順帝から禅譲を受け、南朝斉を建国 | ||||||
502 | 梁 | 蕭衍が南朝斉の和帝から禅譲を受け、南朝梁を建国 | ||||||
527 | 筑紫の国造磐井が反乱を起こす(磐井の乱) | |||||||
529 | 倭が近江毛野を安羅国に派遣 | |||||||
532 | 金官国が新羅に降伏し、併合される | |||||||
534 | 西魏 | 東魏 | 北魏が東魏と西魏に分かれる | |||||
538 | 百済が熊津城(公州)から泗泚城(扶余)へ遷都 百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典が送る(『上宮聖徳法王帝伝』による仏教公伝) |
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550 | 北斉 | 東魏の実権者高洋が北斉を建国 | ||||||
552 | 百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典が送る(『日本書紀』による仏教公伝) | |||||||
554 | 百済の聖王が新羅との戦いで戦死 | |||||||
557 | 北周 | 陳 | 西魏の実権者宇文氏が北周を建国 南朝梁の重臣陳霸先が敬帝から禅譲を受け、陳を建国 |
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562 | 新羅が大加耶国を滅ぼし、加耶全体を併合(「任那」の滅亡) | |||||||
570 | 高句麗が倭に初めて使者を送る | |||||||
577 | 北周が北斉を滅ぼす | |||||||
581 | 隋 | 北周宣帝の外戚楊堅が政権を奪い、隋を建国 | ||||||
587 | 崇仏派の蘇我馬子らが廃仏派の物部守屋を討伐(丁未の乱) | |||||||
589 | 2月、隋が南朝陳を滅ぼし、中国全土を統一 | |||||||
592 | 飛鳥時代 | 推古天皇が即位し、明日香に都を置く | ||||||
595 | 高句麗から慧慈が渡来し、聖徳太子の仏教・政治・外交のブレインとなる | |||||||
596 | 蘇我氏が法興寺(現在の飛鳥寺)を建立(高句麗の建築様式の影響?) | |||||||
598 | 隋の文帝が第一回高句麗遠征 | |||||||
600 | 第一回遣隋使派遣(『隋書』倭国伝) 倭が新羅に出兵 |
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601 | 倭が高句麗・百済に使節を派遣して新羅攻撃を協議 | |||||||
607 | 第二回遣隋使派遣 | |||||||
608 | 隋が答礼使として裴世清を倭に派遣 裴世清を送るため、第三回遣隋使派遣。高向玄理、南淵請安、僧旻、倭漢福因、恵隠らを隋に留学させる |
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612 | 隋の煬帝が第二回高句麗遠征 | |||||||
613 | 隋の煬帝が第三回高句麗遠征 | |||||||
614 | 隋の煬帝が第四回高句麗遠征 | |||||||
618 | 唐 | 李淵が隋を滅ぼして唐を建国 | ||||||
623 | 新羅から倭に仏像が送られ広隆寺に安置される(広隆寺の弥勒菩薩像か?) | |||||||
630 | 倭が第一回遣唐使を派遣 | |||||||
632 | 第一回遣唐使犬上御田鍬を送って、高表仁が来日するが、礼を争って帰国 | |||||||
640 | 第二回遣隋使とともに渡海した高向玄理が、新羅を経て32年ぶりに帰国 | |||||||
642 | 高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こす 百済の義慈王が新羅に侵攻 新羅が金春秋(のちの武烈王)を高句麗に派遣 |
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643 | 新羅が唐に使者を送り、救援を要請 | |||||||
645 | 2月、唐の太宗が第一回高句麗遠征 6月、倭で蘇我入鹿が誅殺され(乙巳の変)、高向玄理と僧旻を国博士に任ずる |
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646 | 倭が高向玄理を新羅に派遣 | |||||||
647 | 新羅が金春秋(のちの武烈王)を倭に派遣 唐が第二回高句麗遠征 |
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648 | 唐が第三回高句麗遠征 新羅が金春秋(のちの武烈王)を唐に派遣 |
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649 | 新羅が唐の衣冠礼服の制度を採用 | |||||||
650 | 新羅が独自の年号を廃し、唐の年号を採用 | |||||||
651 | 新羅の貢調使が唐風の官服で来朝、大宰府は非礼として追い返す | |||||||
653 | 倭が第二回遣唐使を派遣 | |||||||
654 | 倭が第三回遣唐使を派遣 新羅の武烈王(金春秋)即位 高向玄理没 |
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659 | 倭が第四回遣唐使を派遣、使節は長安に抑留される | |||||||
660 | 唐・新羅連合軍が百済を攻撃、義慈王が降伏し百済滅亡 | |||||||
661 | 新羅の武烈王(金春秋)没 倭が百済の遺臣鬼室福信らの要請により、人質となっていた余豊璋を五千の兵をつけて帰国させる |
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663 | 倭が百済復興を支援するため、上毛野稚子を将軍とする二万七千の軍勢を派兵(白村江の戦) | |||||||
664 | 倭が対馬・壱岐・筑紫に防人と烽火を置く | |||||||
665 | 倭が第五回遣唐使を派遣 | |||||||
668 | 唐・新羅連合軍の攻撃により高句麗滅亡 | |||||||
669 | 倭が第六回遣唐使を派遣(こののち33年にわたり遣唐使の派遣を中断) | |||||||
670 | 新羅が旧百済領に侵攻し、朝鮮半島で羈縻政策を進める唐と対立(羈縻政策とは、帰順した諸民族地域に羈縻州を置き、都督府の督察下での自治を認める間接統治策) | |||||||
672 | 倭で天智天皇の後継をめぐって内戦が起こり(壬申の乱)、勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となり、皇后であとを継いだ持統天皇とともに唐の律令制度を導入 | |||||||
676 | 統一新羅 | 新羅が伎伐浦で唐軍を破り、旧百済領全域を支配し、唐の羈縻政策を排除 | ||||||
698 | 高句麗の遺民と靺鞨人が渤海を建国 | |||||||
702 | 倭が国号を日本と改め、第七回遣唐使を派遣 | |||||||
710 | 奈良時代 | 3月、元明天皇が藤原京から平城京へ遷都(奈良時代の始まり) | ||||||
720 | 『日本書紀』が成立 | |||||||
753 | 遣唐大使の藤原清河が唐の朝廷での朝賀の際、新羅と席次を争う(争長事件) | |||||||
759 | 倭が新羅遠征を計画 | |||||||
779 | 天皇が「表を将たざるものの境に入ら使むべからず」という詔を出し、新羅の使節を追い返す(新羅との国交断絶) | |||||||
784 | 11月、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都 | |||||||
794 | 平安時代 | 10月、桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都(平安時代の始まり) | ||||||
828 | 新羅商人張保皐(790-841)が大宰府に来航 | |||||||
838 | 最後の遣唐使として、藤原常嗣や円仁らが渡唐 | |||||||
847 | 円仁が新羅の商船に乗って帰朝 | |||||||
892 | 後百済 | 甄萱が後百済を建国 | ||||||
901 | 弓裔が後高句麗を建国 | |||||||
907 | 遼 | 五代十国時代 | 唐が滅ぶ | |||||
918 | 後高句麗で王建が王位を奪い、高麗を建国 | |||||||
922 | 後百済から使節が来朝するが、通交を拒否 | |||||||
926 | 渤海が契丹族に滅ぼされる | |||||||
929 | 後百済から再び使節が来朝するが、通交を拒否 | |||||||
935 | 高麗が新羅を滅ぼす | |||||||
936 | 高麗 | 高麗が後百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一 | ||||||
937 | 高麗から使節が来朝するが、通交を拒否 | |||||||
939 | 日本で平将門の乱が起こる 高麗から再び使節が来朝するが、通交を拒否 |
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