2024年度春のフィールドワーク

活動記録
寶生寺関東大震災韓国人慰霊碑前にて

2024年度 春のフィールドワーク
関東大震災韓国人慰霊碑

目的

 1923年に起こった関東大震災では、デマなどにより、多くの朝鮮や中国の人々が犠牲となりました。その悲劇の現場の一つが、南吉田第二尋常小学校の綴り方(作文)などが伝える中村橋です(資料①、②参照)。
 農家の押し入れに匿われ難を逃れた李誠七氏(1883-1959)は、虐殺された同胞の遺体を集めて荼毘に付すと、位牌をもって各地の寺を回りました。しかし供養してくれるところはありません。そうした中、横浜市南区にある宝生寺の住職佐伯妙智氏が、非業の死を遂げた朝鮮の人々に同情し、翌1924年、朝鮮人500名、日本人1000余名を集めて法要を行いました。
 1971年、在日本大韓民国居留民団神奈川県地方本部は寄付を募り、この寺に慰霊碑を建立しました。それが今回見学する関東大震災韓国人慰霊碑です。
 惨劇が起こった現場と、この慰霊碑を訪ね、一般の市民がなぜこのような凶行に及んだのかを考えてみましょう。

行程

13:10 大学出発
13:41 市ヶ谷駅発(JR総武線・1番線)
13:51 新宿着
14:00 新宿発(JR湘南新宿ライン特別快速・1番線)
14:29 横浜着
14:40 横浜発(横浜市営地下鉄ブルーライン・1番線)
14:49 阪東橋着
    (徒歩)
15:00 横浜市立南吉田小学校着
    (徒歩)
15:30 中村橋着‥綴方帳に書かれた凶行の現場
    (徒歩)
15:50 寶生寺着‥関東大震災韓国人慰霊碑見学
16:30 寶生寺発
    (徒歩)
16:49 東蒔田町発(バス11系統桜木町駅前行き)
17:09 港の見える丘公園
    (徒歩)
17:40 山下公園(震災の瓦礫の埋め立て地)
    (徒歩)
18:15 中華街で中華料理パーティー
    横浜酒家(ぐるなび
20:00 JR石川町駅で解散(JR根岸線)

交通費

JR総武線・湘南新宿ライン特別快速(市ヶ谷~横浜)
 571円
横浜市営地下鉄ブルーライン(横浜~阪東橋)
 242円
バス11系統桜木町駅前行き(東蒔田町~中華街入口)
 220円
─────────────────────────
計1,033円(IC優先)

中華料理パーティー費

中華街・横浜酒家
 3,300円(食べ飲み放題)

関東大震災のがれきを埋めて作られた山下公園にて

事前学習資料

河目悌二画「虐殺絵」(国立歴史民俗博物館蔵)

【資料①】小学生が見た中村橋での惨劇
 三日は、お昼ごろから、近所の人たちは、刀を持ったり、槍をもったり、鉄砲を持ったりして、何をするのだろうと思っていますと、堀之内の方から一人の人をつれて、わあわあといって中村橋の上へ来ました。その一人の人は朝鮮人でした。朝鮮人を橋の上で大勢の人が刀で斬ったり、鉄砲でぶったり、槍でつついたりしていました。しまいには川の中へ放り込んでしまいました。
 夜になると、朝鮮人が火をつけにくるとゆうことを聞いていましたから、夜は起きていました。一日に五、六たびもありました。四日と五日は朝鮮人のことばかりで、おっかなかった。

〔出典〕六年女子(『南吉田第二尋常小学校震災綴方帳』開港資料館蔵)
原文のかなは漢字に改めた

【資料②】中村町周辺の惨劇
 横浜の中村町周辺は、木賃宿が密集した町だった。木賃宿には朝鮮人労務者が多く住みつき、数百人からいたように思う。
 この近くの友人宅を訪ねていて地震にあった私は、だから、世に有名な朝鮮人虐殺の実態を、この目でつぶさに目撃することになった。二日朝から、朝鮮人が火を放けて回っているという流言がとぶと、ただちに、朝鮮人狩りが始まった。
 根岸橋のたもとに、通称“根岸の別荘”と呼ばれる横浜刑務所があって、そこのコンクリート壁が全壊したため、囚人がいちじ解放されていたが、この囚人たち七、八百人も加わって、捜索隊ができた。彼らは町中をくまなく探し回り、夜を徹して山狩りをつづけたのである。
 見つけてきた朝鮮人は、警察が年齢、氏名、住所を確かめ保護する間もなく、町の捜索隊にとっ捕まってしまう。ウカウカしていると警察官自身殺されかねないほど殺気だった雰囲気だった。そうしてグルリと朝鮮人をとり囲むと、何ひとついいわけを聞くでもなく、問答無用とばかり、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。それも、ひと思いにバッサリというのでなく、皆がそれぞれおっかなびっくりやるので、よけいに残酷だ。頭をこずくもの、目に竹ヤリを突きたてるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの‥‥朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。
 こうしてなぶり殺しにした朝鮮人の死体を、久良岐橋の土手っぷちに並んで立っている桜並み木の、川のほうにつきだした小枝につりさげる。しかも、一本や二本じゃない。三吉橋から中村橋にかけて、戴天記念に植樹された二百以上の木のすべての幹に、血まみれの死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、さらにリンチを加える‥‥人間のすることとも思えない地獄の刑場だった。完全に死んだ人間は、つるされたツナを切られ、川の中に落とされる。川の中が何百という死体で埋まり、昨日までの清流は真っ赤な血の濁流となってしまった。
 町の捜索隊による、恐るべき私刑劇は、戒厳令がしかれ、甲府の連隊が治安のために乗り込んできた五日過ぎまでつづいた。多くの朝鮮人狩りに、“功績”のあった囚人たちが、町の人々から“ご囚人さま”と呼ばれ感謝されるという幕間劇までついた。彼らは、行くさきざきで、タバコ、米、食物を盗み、酒をむさぼり飲むという暴行をはたらいたにもかかわらず‥‥。
 この朝鮮人大量殺人が起こった原因は、かんたんに思いつくものだけでも、彼らが低賃金で労働力を提供するため日本人労務者があぶれて、それを日ごろ恨みに思っていたこと、工事中の穴の中で食事をしたり、ニンニクを好んだりという生活習慣のちがいから、朝鮮人がとくべつ不潔でないのに、不潔で軽蔑すべき民族だと差別されていたこと、朝鮮は日本の属国だという日本人の誤った“うぬぼれ”からくる蔑視感がはびこっていたことなど、幾つかあげられるだろう。

〔出典〕『潮』1971年9月号、潮出版社
川の名前の漢字の誤りを訂正した


参考資料

  1. (映像資料)『南吉田第二尋常小学校震災綴方帳』(開港資料館蔵)→映像資料
  2. 関東大震災当時の横浜→横浜地図データベース、現在との比較→古今マップ
  3. 後藤周『それは丘の上から始まった~1923年 横浜の朝鮮人・中国人虐殺』(ころから 2023年)
  4. 姜徳相・山本すみ子編『神奈川県関東大震災朝鮮人虐殺関係資料』(三一書房 2023年)
  5. 坂井俊樹「虐殺された朝鮮人の追悼と社会事業の展開」(『歴史評論』第521号)
  6. 伊藤泉美「関東大震災と横浜華僑社会」(横浜開港資料館編『横浜開港資料館紀要』第15号、1997年3月所収→国立国会図書館デジタルコレクション

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