共同研究
白村江の戦い、秀吉の朝鮮出兵、そして日韓併合。日本は古代から近代まで繰り返し朝鮮半島への版図拡大を試みてきました。
しかし、人々を海外出兵に動員するためには、大義名分が必要です。その大義名分として、古くから使われてきたのが、“神功皇后の三韓征伐”伝説でした。では、なぜこの伝説が、他国への出兵の大義名分となったのでしょうか。
『日本書紀』に記されたこの伝説には、2つの謎があります。1つは、なぜ神功皇后は三韓に出兵したのか。『日本書紀』によれば、神功皇后はある時、神から「私を祀れば、血を流さずして、金銀財宝に溢れた新羅を服属させることができる」という神託を受け、夫の仲哀天皇に伝えたのですが、仲哀天皇はこれに従わなかったため死んでしました。そこで、神功皇后は夫に代わって出兵したというのです。古代の伝説とはいえ、突然神託を受けて海外に出兵するというのは、不自然でしょう。
もう一つの謎は、『日本書紀』に付された注です。この注は『日本書紀』の編者が付したものといいます。その神功皇后紀の注を見ると、『魏志倭人伝』の邪馬台国の記事が引かれ、まるで神功皇后と卑弥呼が同一人物であるかのようです。
第一の謎については、むかしの人も疑問に感じていたようです。そこで、中世になると、新たな説が生まれました。神功皇后は、三韓からの侵略を防ぐために出兵したというのです。
この説は、蒙古襲来の際の八幡大菩薩の霊験を説く『八幡愚童訓』などを通して、広く庶民の間に伝えられました。八幡大菩薩とは、神功皇后の子である応神天皇の化身とされる神です。この『八幡愚童訓』の前段に神功皇后の活躍が描かれています。それによれば、応神天皇の父・仲哀天皇の時代、異国が日本を攻めようと、塵輪という怪物を送り込んできました。仲哀天皇は弓でこの怪物をみごと退治しますが、天皇自身も流れ矢に当たり、亡くなってしまいました。神功皇后の出兵は、この仲哀天皇の遺志を継いだものだというのです。
『八幡愚童訓』には、こんな話も加えられています。神功皇后の神威を恐れた新羅王は「我ら日本国の犬となり、日本を守護し、毎年八十艘の御年貢を備え奉るべし」と誓い、神功皇后も弓の筈で岩の上に「新羅国の大王は日本の犬なり」と刻んだというのです。
この新たな説は、倭寇による略奪や、秀吉の朝鮮出兵に大義名分を与えました。
〔キーワード〕
神功皇后、三韓征伐、古事記、日本書紀、八幡愚童訓、秀吉の朝鮮出兵、征韓論、魏志倭人伝、卑弥呼、本居宣長、馭戎慨言、邪馬台国九州説
参考資料
- 吉野誠『東アジア史の中の日本と朝鮮』(明石書店 2004年)
そもそも畿内説の出発点は、『日本書紀』が神功皇后紀の注にわざわざ『倭人伝』を引用したことにありました。大和朝廷が朝鮮諸国を服属させたという物語の主人公となっているのが神功皇后なのですが、それと卑弥呼とが同一人物であることをにおわせるのは、虚構性の強い神功皇后に実在性をもたせるための手段だったとおもわれます。しかし、それは同時に、大和朝廷が中国皇帝に臣属していたと公言することをも意味しました。(中略)
九州説をとれば、大和朝廷の統一以前に別の国家が存在したことを明確にすることになり、一方で畿内説をとれば、早くから大和朝廷の統一を主張できるものの、大和朝廷が中国王朝への臣属から出発していた事実を暴きだすことになってしまいます。今日においても、神話の世界から日本史の叙述をはじめたり、大和朝廷の一貫性と自律性を強調しようとするむきには、依然として卑弥呼の存在が目障りなものであり、『倭人伝』の価値をなるべく低くみたいという事情に変わりはないもののようにおもわれます。(pp.32-33) - 『日本書紀』巻9気長足姫尊(神功皇后)
- 飯田弟治『新訳日本書紀』(嵩山房1912年)
- 佐伯真一「神功皇后説話の屈折点」(『日本文学』第67 巻第1号、2018年)
- 「八幡愚童訓」(大久保正編『国文学未翻刻資料集』 )
- 『八幡愚童訓(上)』(慶応義塾大学メディアセンター蔵)
image22に「新羅国大王者日本之犬也」という一句がある。 - 文部省編『初等科国史(上)』(東京書籍 1943年)
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