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日中交流の史跡と文化

第10回 かなの誕生

文字はヒトがコトバを記録するために発明した最初の道具です。コトバを音声のまま記録できるようになったいまでも、文字はコトバを伝え合う道具として、私たちの文明を支えています。では、日本語を記録するための文字であるかなは、いつごろ誕生したのでしょ...
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【コラム】漢字からひらがなへ――奈良薬師寺「仏足跡歌碑」

鈴木 靖  古墳時代、日本にはまだ自らの言葉を記す文字はなく、文書はすべて漢文で書かれていました。しかし、奈良・平安時代になり、世界中の使節や商人が集まる唐を訪れた日本の使節や留学生たちは、世界には中国以外にも自らの言葉を自らの文字で記す国...
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第11回 渡来僧から歯医者まで~民間交流の時代へ

1987年、福岡市の旧平和台球場の改修現場から鴻臚館こうろかんの遺構が発見されました。古代、日中の外交や貿易の窓口であった施設で、9世紀末に遣唐使が廃止された後も、民間交流の拠点となっていました。   その後、11世紀後半になると、民間交流...
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【コラム】陳和卿とと河内の鋳物師たち

水島彩花  平安時代の末の1180年、平家の南都焼打により、奈良の町は焼け野原となり、奈良の大仏も頭や手が焼け落ちてしまいました。翌1181年、藤原行隆を勅使として破損状況の検分が行われましたが、同行した10余人の鋳師たちは「人力の及ぶとこ...
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第12回 海を渡った画家~雪舟

第12回 海を渡った画家~雪舟  9世紀末に遣唐使が廃止されて以降、500年続いた民間交流の時代は、明朝(1368~1644年)の成立によって幕を閉じます。モンゴルの支配を脱した明朝は、海外との交流を朝貢のみに限ったため、日中の交流も勘合符...
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【コラム】雪舟が中国留学で得たものとは?

新井梨紗 清水玲奈  雪舟の作品は、天橋立図、秋冬山水画、四季山水図巻、破墨山水図、慧可断臂図、山水図の計6作品が国宝指定されており、画家の中では最多です。また重要文化財に指定されている作品も19点あります。  このように、いまでは日本中世...
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第13回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵

第13回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵  14から16世紀にかけて、中国の人びとの対日イメージは大きく悪化します。その原因となったのが、倭寇と秀吉の朝鮮出兵です。  倭寇とは、日本を拠点とした武装集団で、中国や朝鮮半島の沿海部を襲っては、略奪を繰り...
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【コラム】耳塚に葬られた明の兵士たち

松井亜唯里  秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮だけでなく、中国にも多大な被害を与えました。戦争にかかった費用は1700万両余り1。当時の明朝の歳入は1800万両余りであったといいますから2、歳入のほとんどを戦費に費やしたことになります。  2度の出兵...
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第14回 東アジアの平和の礎となった思想―儒教

応仁の乱以来、100年以上続いた戦国時代。人びとは、秩序なき乱世に苦しんでいました。公家の家に生まれた藤原惺窩(ふじわら せいか)もその1人。惺窩は、18歳の時、土豪の襲撃により父と兄を失いました。1598年、秀吉の朝鮮出兵で日本に拉致され...
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第15回 唐通事

江戸時代、キリスト教の拡大を恐れた幕府は、1635年、海外渡航を全面的に禁止し、貿易港を長崎一港に定めました。いわゆる鎖国の始まりです。  翌36年には港の一角にポルトガル人を収容する出島が作られ、41年にポルトガル人を追放すると、平戸にあ...