【コラム】大宰府と筑紫歌壇

日中交流の史跡と文化
都督府古址石碑(大宰府政庁跡)

【コラム】大宰府と筑紫歌壇

 大伴家持おおとものやかもちは、728年、大宰帥に任命された父・旅人たびとに従い、九州の大宰府に行きました。家持が10歳のころのことです。
 当時、九州には、「貧窮問答歌」などで知られる社会派の歌人山上憶良やまのうえのおくらがいました。
 憶良は、701年、遣唐使の一員として中国に渡りました。当時、中国は則天武后の時代。則天武后は若いころ、高宗をあやつって王皇后を廃位させ、さらに自身の皇后擁立に反対した長孫無忌ちょうそん むき褚遂良ちょ すいりょうらの重臣を配流し、死に追いやりました。高宗の没後は、そのあとを継いだわが子の中宗や睿宗えいそうをつぎつぎと廃位し、自ら帝位に就いて、国号も周と改めていました。
 そんな則天武后でしたが、憶良たちが訪れたころは、すでに晩年を迎え、自らの罪業を悔いていたのか、悲田養病坊という施設を設けて、僧侶らに貧病者の救済事業を行わせていました。
 仏教の悲田思想に基づくこの事業は、憶良の思想にも大きな影響を与えたようです。憶良は帰国後、律令制度下の人々の窮状と役人の苛斂誅求を訴える長歌を作りました。それが「貧窮問答歌」です。歌の末尾には「山上憶良頓首謹上」とあり、これが上官への建議書のような歌であったことがわかります。その後、この事業は日本にも導入され、723年、興福寺に施薬院と悲田院が設けられました。
 憶良に関連する歌としては、『万葉集』巻16にこんな歌も載っています。

荒雄らを来むか来じかと飯盛りて
門に出で立ち待てど来まさず

 この歌は「筑前の国の志賀の白水郎の歌十首」の中の一首で、左注(編者が歌の後に付した注)によれば、対馬に食糧を運ぶ途中、暴風雨に遭って犠牲となった荒雄という漁師を偲んで、その妻子が詠った歌だといいます。白村江の戦い以来、対馬には多くの役人や防人が駐屯していました。しかし、対馬は岩がちで耕地が少ないため、九州本島から食糧を補給しなければなりませんでした。大宰府は「百姓おほみたから」すなわち民間人の津麻呂にその船頭役を命じたのですが、津麻呂は高齢だったため、同じく民間人の荒雄が代役に立ち、犠牲になったのです。左注は一説として、当時筑前守であった憶良がその妻子の悲しみに感じて詠んだとしていますが、これは憶良が詠んだのではなく、治下の民の声を採集したものなのかもしれません。
 父・旅人の大宰府在任中は、家持も憶良と会う機会が多かったでしょう。高官でありながら、民衆の苦しみ、悲しみに寄り添おうとする憶良の姿は、幼い家持に役人のあるべき姿を教えたようです。後年、家持が防人の歌を採集したのも、あるいはその影響だったのかもしれません。
 旅人や家持、憶良ら筑紫歌壇と呼ばれる歌人たちが集った大宰府には、いまも当時の遺跡が数多く残っています。中国や朝鮮半島との外交の窓口であった大宰府政庁跡。白村江の戦い後には、唐・新羅軍の進攻から大宰府を守るため、大規模な防衛施設が造られました。全長1.2キロ、高さ9メートルの土塁と、幅60メートル、深さ4メートルの外濠からなる水城。百済遺民の技術者を派遣して造られた朝鮮式山城の大野城基肄きい
 古代最大の海外出兵となった白村江の戦いが、国民にいかに大きな負担を強いたかをいまに伝えています。

▼大宰府政庁跡

▼大宰府政庁復元図(CG)

▼水城

▼大宰府政庁跡地図

大宰府(大宰府政庁跡)
〒818-0101
福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1
TEL:092-921-2121

水城跡(水城館)
〒818-0132
福岡県太宰府市国分二丁目17-10
TEL:092-555-8455

西暦 和暦 唐暦 出来事
624   武徳7 武照(のちの則天武后)生
655   永徽6 高宗、王皇后を廃して武照を皇后に立てることの是非を重臣に下問、長孫無忌と褚遂良はこれに反対する
王皇后と蕭淑妃、刑死
658   顕慶3 褚遂良、配流先の愛州で死去
659   4 長孫無忌、配流先で自殺
660 斉明天皇6   山上憶良生(?)
百済が唐・新羅連合軍に敗れ、滅亡
663 天智2   白村江の戦い
665 天智天皇4   大伴旅人、大納言大伴安麻呂の長男として生
683   弘道元 高宗没、中宗即位
684   文明元 則天武后、中宗を廃位し、睿宗即位
690   天授元 則天武后、睿宗を廃位し、自ら即位、国号を周と改める
701 大宝元   山上憶良、遣唐使の一員として渡唐(執節使は粟田真人)
このころ則天武后が悲田養病坊を設置
705 神龍元   則天武后没
718 養老2   大伴家持生(?)
720 4   大伴旅人、征隼人持節大将軍に任ぜられ反乱の鎮圧にあたる
723 7   興福寺に施薬院・悲田院が建てられる
726 神亀3   山上憶良、筑前守に任ぜられ赴任
728 5   大伴旅人、大宰帥として妻大伴郎女を伴って赴任
730 天平2   大伴旅人、大宰府の邸宅で梅花の宴を開く
731 3   大伴旅人没
732 4   山上憶良、筑前守の任期を終え、大納言に任ぜられて帰京
733 5   山上憶良没(?)

参考資料

  1. 上野誠『万葉集から学ぼう 日本のこころと言葉 万葉の旅のうた』(ミルヴァ書房、2021年)
  2. 神野志隆光『万葉集鑑賞辞典』(講談社、2010年)

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