新井白石と能楽

研究
新井白石肖像画(早稲田大学図書館蔵)

 宝永3年(1706)3月、新井白石は主君徳川家宣に『通鑑綱目』後唐荘宗の紀を進講した後、間部詮房を通じて能への耽溺を諌止する「進呈之案」(諫言書)を上呈した。
 甲府藩主であった主君家宣は、前年12月、子のない五代将軍徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸に入った。すると養父・綱吉の影響もあってか、盛んに奥能(私的な演能)を行うようになる。その耽溺ぶりは驚くべきもので、中野賢治氏の調査によれば、平均3.6日に1回の頻度で何らかの催しを行っていたという
 この家宣の奥能を支えたのが、甲府藩主時代からの寵臣・間部詮房であった。詮房の父・西田清貞は、寛文12年(1672)ごろ喜多家に弟子入りした。詮房もここで子方などを務めていたが、14歳のころ、家宣の眼にとまり、小姓に取り立てられたという。
 白石はこともあろうに、能好きの家宣を「」と諫め、能役者出身の詮房を「天下の人をして首を疾(にくま)しめ額を蹙(ひそめ)しむこと最甚しきは、優人の輩を撰用いられて、士人と歯するにしくはなし」と弾劾したのである。このときはさすがの白石も肝を冷やしたようで、後に親友の室鳩巣に「」と漏らしている。

 実は、後唐荘宗にもそんな寵臣がいた。
 人の器という点では、間部は白石よりも一回り大きな器量があった。


⑴中野賢治「徳川家宣の将軍就任と演能活動―宮城県図書館所蔵『御城御内証御能御囃子組』の分析を通じて」(『山梨県立博物館研究紀要』第10集 2016年)

新井白石年譜

西暦 和暦 出来事
1601 慶長6 父・新井正済生
1604 9 3月、祖母没
1609 14 8月、祖父・新井勘解由没
1613 18 父・新井正済、郷里・常陸国下妻庄(現茨城県下妻市)から出奔
1630 寛永7 父・新井正済、上総国久留里藩(現千葉県君津市久留里)第二代藩主・土屋利直(戸部こほう)に仕官
1653 承応2 3月、長姉おまつ没
1654 3 11月、次姉およね没
1657 明暦3 1月、明暦の大火
2月、新井白石、柳原(東京都千代田区万世橋から浅草橋に至る神田川沿い)の仮屋に生まれる
1671 寛文11 1月、三姉おてい没
1673 延宝元 同輩から中江藤樹『翁問答』を借りて聖人の道を知り、京から来た医者江馬益庵玄牧に儒教を学ぶ
1675 3 閏4月、土屋利直没。長男直樹(頼直、予州)が家督を継いで久留里藩第三代藩主となる
1677 5 2月、土屋家の御家騒動に連座し、父正済は禄を奪われ、白石は同家を追われ、公構奉となる。このため父がかつて養子とした相馬藩士郡司正信の仕送りで浪人生活をする
5月、妹おまで没
1678 6 5月、母没
1679 7 8月、土屋直樹、所領を没収され、子の逵直(みちなお)に遠江周智郡三千石が与えられる
1682 天和2 このころ対馬国の儒生阿比留(西山順泰)と知り合う
3月、堀田筑前守正俊に仕官
6月、父正済没
9月、徳川綱吉襲封祝賀のため来日した朝鮮通信使の客館を訪ね、製述官成琬・書記官李聃齢・裨将洪世泰に詩百首の評を乞う
1684 貞享元 8月、堀田正俊、若年寄稲葉石見守正休に城中で斬られ、のち死亡
1686 3 阿比留の仲立ちで木下順庵に会い、その門下に入る
1688 元禄元 9月、阿比留没
1690 3 5代将軍綱吉が上野忍岡の林家の学問所にあった孔子廟先聖殿を湯島昌平坂に移して湯島聖堂を建立
1691 春、堀田家を辞す
林信篤が、湯島聖堂の竣工にあわせて大学頭に任じられ、それまで僧形であった儒官の束髪改服が許され、従五位下に叙せられる
1693 6 12月、木下順庵の推挙により、甲府藩主徳川綱豊(のちの六代将軍家宣)の侍講となる
1694 7 2月、長女きよ没、同月、本所から湯島天神下に転居
1698 11 9月、京橋南鍋町からの出火で屋敷を焼失
12月、木下順庵没し、紀州藩の儒官榊原玄輔とともに葬儀を行う
1702 15 2月、徳川綱豊に『藩翰譜』を進呈
1703 16 11月、湯島天神下の屋敷で地震に遭う(元禄地震)、その7日後、小石川水戸屋敷からの出火で再び屋敷を焼失
1704 宝永元 12月、徳川綱豊、家宣と改名し、将軍儲副となる
1706 3 3月、『通鑑綱目』後唐荘宗の紀を進講の後、間部を通じて散楽への耽溺を諌止する封事(意見書)を上呈(進呈之案)
1707 4 5月、雉子橋の外に屋敷を賜う
8月、江戸城内で徳川家宣の長男家千代の誕生を祝う散楽が行われ、大田政資(家千代の母法心院の弟)とともに拝覧
1708 5 閏1月、富士山噴火
1709 6 1月、徳川綱吉没
1712 正徳2 6月、徳川家宣が江戸城で最後の演能
10月、徳川家宣没
1714 4 家継の生母月光院の名代として増上寺に参拝した奥女中絵島が、帰途歌舞伎を観劇に行き、歌舞伎役者生島新五郎と密通したとの疑いで取り調べを受ける(絵島生島事件
     

 我父のわかくおはせしほどは戦国の時をさる事遠からず、世の人遊侠を事として、気節を尚ぶならはし、今の時には異なる事ども多く聞えたりけり。(『折たく柴の記』p.18)

こゝにおいて、我仕のみちもおのづからひらけて、ある人のすゝめによりて、古河の少将正俊朝臣の家に出仕たりき。これよりのちは、父も心やすくやしなひまゐらすべしとおもひしに、その年の六月八日に、我もとに来り給ひ、夜ひと夜かたりなぐさみ給ひて、あけの日住給ふ所に帰り給ひしに、其暁よりわづらひ出し給ふと聞えしかば、いそぎゆきむかひしに、事きれ給ふべきほどにて、「某こそ参りて侍れ」と申せしを聞給ひ、目をひらき御覧じて、手をさし出して我手をとり給ひ、ねぶるがごとくに終り給ひたりき。此年、我つかへにしたがひしより、わづかに百日にもたらずして、わかれまゐらせし事のかなしけれど、御あとの事ども、思し置く事なくして終り給ひしは、せめての幸にもおはせしなるべし。是年八十二歳にておはしましたりき。
 ‥‥我物覚しより、教給ひし事ども多かるうちに、つねに思出らるゝ事は、「男児はたゞ事に堪ふる事を習ふべき也。これを習ふべき事は、何事にもあれ、我きはめて堪がたく思ふ事より堪はじめぬれば、久しくしては、さのみは難事と思ふ事はあるべからざる也」と仰られき。
(『折たく柴の記』pp.58-60)

 戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方等の人々出むかへり。(此三人は某等が事を支配すべき由仰かうぶれる所也)‥‥詮房朝臣、小出と共に出来て、仰を伝へられし事ありて、人々退出す。某はしばしがほどこゝにさぶらふべき由を仰下さる。(‥‥人々罷出しあとにて、小出某が座に居よりて、「これより後の御事共は、天下の安危にかゝらせ給ふ所也。我ゝが事は、かねてもしり給ひし事のごとく、もとより不学無術のともがら也。たのむところは、そこのおはしますのみ也」と申さる。)(『折たく柴の記』pp.119-120)

 儲副にておはしましける時也。丙戌の年三月十二日に、通鑑綱目、後唐荘宗の紀を講じはてて、詮房朝臣して、封事奉りたりき。其事は、「異朝の伝奇・雑劇など申す事は、すなはち今の散楽にさぶらふなり。此事上にふかくこのませ給ふ所なれば、今のほどはとにもかくにも候はんずらむ。かの荘宗の事は、後の人主の鑑させ給ふべき御事にこそ侍れ」と申せし事ども也。そののち、今の散楽の異朝の雑劇にひとしき所を問はせ給ひしかば、同き十六日に、其事の由をしるして奉れり。そののち、又、「異朝雑劇の事しるせしものやある」と仰下されしかば、「それらの物の、此国に渡り来しものも候なる」と申す。「さらば、まゐらせよ」と仰下されしによりて、元曲選五十六巻をもて、その九月六日に、正直してまゐらせたりき。御代しろしめされし後に至て、散楽御覧の事は聞えしかど、某をめされし御事はつひになかりき。
 散楽の事は、このませ給ひし所也。しかるを、某かく申せしのちに、ある人の、「むかし神祖も徳廟も此事をなさせ給ひし。御みづから此事なさせ給はむ、なに事かあるべき」と申して、大学頭信篤等の撰進らせし神祖の御時の事どもしるせしものの中に、太閤秀吉の代に、神祖も此事をなし給ひ、徳廟も神祖の御前にて此事なさせ給ひし事どもしるせし所を、見せまゐらす。正直の心のごとくにて、其書もち出て、「これらの所見給ふべし」とて見せしを、「某これらのものを見るまでも候はず。むかしは孔子、魯史によりて、筆削の事ありしなどといふ事は、いかにやきゝ給ひぬらむ。又人主のなし給ふ事は、故事となるとも申伝へ侍り。されば、史筆を執らむものは、其心得のある事にこそ侍れ。これらの事、後代に伝へたらむに、なにか国家の美事には候べき。太閤の代のごときは、彼人神祖を翫びまゐらせて、世にほこらむためなれば、これら無礼の事論ずるにもたらず。徳廟の御事、たとへば、今も上の御前にて、此事なし給ふ御事のごとくなれば、老莱が舞彩に似たりなども申さば申さまじ。神祖・徳廟の御時に、当時のごとくあけくれ此事をのみ事とし給ひしとも、又は天下の事しろしめされしのちに此御事ありしとも、しるしてや候。よくよくたづね出して、まゐらせられ候へ」といひたりき。これらの事によりしにや、御代しろしめされしのち、某して、此事を見せ給ひし御事はあらざりき。(『折たく柴の記』pp.173-174)

 伶官を寵任し給ひしといふ事は大久保石見守長安が事を申すなり。神祖、長安を伶官の中より撰給ひし事、俳優の事の為にはあらず。神祖、天下の事を知しめされし初、本朝二百余年争乱の後、公私悉く苦しみ窮りしかば、この事を深く憂へさせ給ひしに、長安其頃は優人にて候ひしが、謀を献りて郡国の中にあらん金銀の鉱を開かんことを請申ければ、頓て其事を受け掌どらしめらる。既に其言を取らせ給ひて其人を用ゐさせ給ふ事、尤其義に叶へりとや申さまし。かくて長安が謀り申せし如く、山陰東海北陸の国々より金銀を採り得し事、幾億万といふ数を知らず。
(新井白石「進呈之案」(『新井白石全集』第六 国書刊行会 1907年))

 今の世にあたりて、天下の人をして首を疾(にくま)しめ額を蹙(ひそめ)しむこと最甚しきは、優人の輩を撰用いられて、士人と歯するにしくはなし。 (新井白石「進呈之案」(『新井白石全集』第六 国書刊行会 1907年))

 西の丸時代において間部の好意にそむくような行動を白石がとったことがある。『折たく柴』によると、それは宝永三年三月十二日のことで、『通鑑綱目』後唐荘宗の紀を進講したのち、間部を通じて封事(意見書)を上呈したことであるが(進呈之案)、その内容は、家宣の好んだ能楽をもってシナの雑劇にひとしいものとし、君主がこれにふけることは亡国の原因となるものとして、諌止しようとしたものである。これは家宣の激怒を買ったらしく、このときばかりは身の危険を感じたと親友の室鳩巣に語っているほどである。この能楽批判は、中に、
「今の世にあたりて、天下の人をして首を疾(憎ま)しめ額を蹙(額にシワをよせる)しむこと最(も)甚しき、優人(俳優)の輩を撰(び)用いられて、士人と歯する(ならぶ)にしくはなし。」
という一節を含んでいたのであるから、封事の取次ぎをした間部にとっても、はなはだ腹の立つ内容であるこというまでもないところで、極度の不快感を覚えたところであろう。しかるにその結果は、白石が「元曲選の時などは、如何様危き儀にて候処、相替らざる御懇意は、結句前より倍し申し候」と告白しているとおり(「兼山秘策」)、かえって信用を得たのであった。同じく白石が、「兎角自分事は、灸と思し召されしと存じ奉り候」(同上書)と言ったように、白石の天下国家の安泰と将軍家宣の徳望をこいねがう至誠至情が、家宣の怒りを解いたのであろうし、また、家宣にしても間部にしても、ここで白石を失うことの不利を知っていたことが(前記、小出有仍の言、参照。また林家の学閥に対抗させるためにも必要だった)、個人的感情を抑制させたものであろう。上記の屋敷拝領につき間部が種々面倒をみたのは、この事件ののちのことなのである。
 因みに、能楽好みは既述のとおり五代綱吉においてみられるところで、大老堀田正俊(白石の旧主)の諌止した例がある。
(宮崎道生「間部詮房」(『大名列伝第7』人物往来社 1967年)→国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献

  1. 新井白石「進呈之案」(『新井白石全集』第六 国書刊行会 1907年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  2. 宮崎道生「新井白石年譜」(『新井白石の研究』吉川弘文館 1958年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  3. 宮崎道生「新井白石と間部詮房」(北島正元編『江戸幕府:その実力者たち 下巻』人物往来社 1964年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  4. 米田真理「徳川将軍家宣による演能の背景―『間部日記』所収記事をめぐって」(『能 研究と評論』第22号 1998年)
  5. 竹内信夫「間部詮房の能楽について」(『芸能史研究』第146号 1999年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  6. 竹内信夫「間部詮房演能一覧」(『芸能史研究』第149号 2000年4月)→国立国会図書館デジタルコレクション
  7. 中野賢治「徳川家宣の将軍就任と演能活動―宮城県図書館所蔵『御城御内証御能御囃子組』の分析を通じて」(『山梨県立博物館研究紀要』第10集 2016年)
  8. 表章「演能所要時間の推移」(『日本文学誌要』第36号 1987年)
  9. 青木正兒「日本文学と外来思潮との交渉(三)支那文学」(『岩波講座日本文学』1932年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  10. 荒木良雄『室町時代文学史 上巻』(人文書院 1944年)→国立国会図書館デジタルコレクション

間部詮房年譜

西暦 和暦 出来事
1666 寛文6 間部詮房、武蔵の国忍で生まれる、父清貞は能役者喜多太夫の衣装着せ(『うのまねがらす』)、詮房も喜多に弟子入りし能を学ぶ
1684 貞享元 甲府綱豊に召し出され、禄米250俵の小姓となる
1609 14 8月、祖父・新井勘解由没

参考文献

 

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