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日中交流の史跡と文化

第11回 渡来僧から歯医者まで~民間交流の時代へ

1987年、福岡市の旧平和台球場の改修現場から鴻臚館こうろかんの遺構が発見されました。古代、日中の外交や貿易の窓口であった施設で、9世紀末に遣唐使が廃止された後も、民間交流の拠点となっていました。   その後、11世紀後半になると、民間交流...
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【コラム】天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)

天武・持統天皇陵(檜隅大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ) 田中美有、若尾莉奈  天武天皇と、その皇后であり史上3人目の女性天皇である持統天皇は、6世紀から7世紀にかけて、唐の制度に倣い、漢文による国史『日本書紀』の編纂や律令制の導入、日本...
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【コラム】日本の万里の長城「水城」

白鳥満理奈 韓衣からころも裾すそに取りつき泣く子らを 置きてぞ来きぬや母おもなしにして  この歌は、大伴家持¹によって集められ、『万葉集』²に収められた防人歌の1つです。母親のいない我が子を残して、遠い九州まで派遣されることになった一人の父...
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【コラム】陳和卿とと河内の鋳物師たち

水島彩花  平安時代の末の1180年、平家の南都焼打により、奈良の町は焼け野原となり、奈良の大仏も頭や手が焼け落ちてしまいました。翌1181年、藤原行隆を勅使として破損状況の検分が行われましたが、同行した10余人の鋳師たちは「人力の及ぶとこ...
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第12回 元寇を止めようとした女真人

第12回 元寇を止めようとした女真人  唐王朝が滅んだ後、中国は征服王朝の時代を迎えます。契丹族の遼は中国の北辺を支配下に収め、女真族の金は華北、モンゴル族の元はやがて中国全土を統治することになります。  こうした中、日本を襲ったのが元寇で...
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【コラム】饅頭の話

【コラム】饅頭の話  落語に「饅頭こわい」という咄があります。町内の若い衆がいつものように話に花を咲かせていると、いつしか話題は怖いものに。ヘビだ、クモだという中、辰さん(上方落語ではみっつぁん)は意外なものを挙げます。それはなんと饅頭。日...
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【コラム】阿弖流爲と母禮の顕彰碑と音羽の滝

柳原瑚子 「そもそも当寺清水寺と申すは、大同二年の御草創、坂の上の田村丸の御願なり」  謡曲『田村』にも謡われているとおり、清水寺は坂上田村麻呂を本願主とする寺です。  平安時代に藤原明衡(989?-1066)が著した「清水寺縁起」によれば...
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第13回 海を渡った画家~雪舟

第13回 海を渡った画家~雪舟  9世紀末に遣唐使が廃止されて以降、500年続いた民間交流の時代は、明朝(1368~1644年)の成立によって幕を閉じます。モンゴルの支配を脱した明朝は、海外との交流を朝貢のみに限ったため、日中の交流も勘合符...
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【コラム】雪舟が中国留学で得たものとは?

【コラム】雪舟が中国留学で得たものとは?  雪舟の作品は、天橋立図、秋冬山水画、四季山水図巻、破墨山水図、慧可断臂図、山水図の計6作品が国宝指定されており、画家の中では最多です。重要文化財に指定されている作品も19点あります。  このように...
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第14回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵

第14回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵  14から16世紀にかけて、中国の人びとの対日イメージは大きく悪化します。その原因となったのが、倭寇と秀吉の朝鮮出兵です。  倭寇とは、日本を拠点とした武装集団で、中国や朝鮮半島の沿海部を襲っては、略奪を繰り...