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日中交流の史跡と文化

第18回 島津重豪と琉球王国

江戸時代、長崎とともに日中交流の懸け橋となっていたのが琉球王国です。  14世紀末、明の朝貢国となった琉球は、1609年、薩摩の侵攻を受け、その支配下に入ります。しかし薩摩がその実態を隠したために、琉球はその後も朝貢を続け、日中を結ぶ交流の...
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【コラム】福州市と那覇市の交流

【コラム】福州市と那覇市の交流  沖縄に北山、中山、南山の三勢力が鼎立していた三山分立時代、中山王察度のもとに中国から使節が派遣されてきました。モンゴルの支配を脱し、明朝が開国したことを知らせる使節です。  察度はさっそく弟の泰期らを明に派...
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第19回 中国の初代最高法院院長になった清国留学生

20世紀初め、清から多くの若者が日本に留学しました。その1人に中国の初代最高法院院長(最高裁長官)となった沈(しん)鈞儒(きんじゅ)(1875―1963)がいます。  沈鈞儒は、29歳の時、科挙の最終試験に合格し、進士の称号を得ました。当時...
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【コラム】Yellow Peril(黄禍論)

日清戦争での日本の勝利は、中国での利権を狙う西欧諸国にとって大きな脅威でした。幕末にはろくな近代兵器さえ持たなかった日本が、近代化を始めてわずか30年足らずで大国清を負かしたのです。  この脅威をカリカチュア(風刺画)によって可視化したのが...
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第20回 殷王朝の実在を証明した日中の研究者

第20回 殷王朝の実在を証明した日中の研究者  殷王朝は実在したのか?20世紀の初め、学者の間でこの問題が真剣に議論されたことがありました。1909年、東大教授の白鳥庫吉が、「中国古伝説の研究」という論文を発表し、殷王朝以前の歴史は伝説に過...
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【コラム】東洋文庫と書道博物館 

青木観雪  このコラムでは、甲骨文字が所蔵されている施設を2つ紹介します。  一つ目は、東京都文京区にある「東洋文庫」という施設です。東洋学の専門図書館・研究所で、林泰輔が収集していた甲骨文字もこちらの施設に所蔵されています。蔵書数は国宝5...
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第21回 映画による戦時下の文化交流

第21回 映画による戦時下の文化交流  戦時中、日本は中国大陸に、満州映画協会(満映)、華北電影、中華電影という3つの国策映画会社を作りました。このうち好対照をなしているのが、満映と中華電影です。  満映の理事長は、甘粕正彦。関東大震災(1...
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【コラム】鎌倉市川喜多映画記念館

【コラム】鎌倉市川喜多映画記念館  中華電影設立の背景には、日中戦争がありました。戦争が始まった1937年には上海が日本に占領され、中国の映画の中心地であった上海では、抗日映画や日本に批判的な映画の制作は困難になっていきました。  1938...
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第22回 憎しみの連鎖を断つために

戦中から戦後にかけて、アジア各地で日本の戦犯裁判が開かれました。被告の数は約5,700人。このうち984人が死刑判決を受けました。  一方、1956年に中国で行われた裁判では、戦犯1,017人中、起訴されたのは45人だけ。死刑判決を受けた者...
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【コラム】中国帰還者連絡会の結成

【コラム】中国帰還者連絡会の結成  1950年7月、ソ連のシベリアに抑留されていた日本人捕虜969名1が、建国して間もない中国に引き渡されました。彼らが収容されたのは、撫順にある戦犯管理所でした。  捕虜ではなく、戦犯として収容されたことを...