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日中交流の史跡と文化

【コラム】饅頭の話

【コラム】饅頭の話  落語に「饅頭こわい」という咄があります。町内の若い衆がいつものように話に花を咲かせていると、いつしか話題は怖いものに。ヘビだ、クモだという中、辰さん(上方落語ではみっつぁん)は意外なものを挙げます。それはなんと饅頭。日...
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【コラム】阿弖流爲と母禮の顕彰碑と音羽の滝

柳原瑚子 「そもそも当寺清水寺と申すは、大同二年の御草創、坂の上の田村丸の御願なり」  謡曲『田村』にも謡われているとおり、清水寺は坂上田村麻呂を本願主とする寺です。  平安時代に藤原明衡(989?-1066)が著した「清水寺縁起」によれば...
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第13回 海を渡った画家~雪舟

第13回 海を渡った画家~雪舟  9世紀末に遣唐使が廃止されて以降、500年続いた民間交流の時代は、明朝(1368~1644年)の成立によって幕を閉じます。モンゴルの支配を脱した明朝は、海外との交流を朝貢のみに限ったため、日中の交流も勘合符...
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【コラム】雪舟が中国留学で得たものとは?

【コラム】雪舟が中国留学で得たものとは?  雪舟の作品は、天橋立図、秋冬山水画、四季山水図巻、破墨山水図、慧可断臂図、山水図の計6作品が国宝指定されており、画家の中では最多です。重要文化財に指定されている作品も19点あります。  このように...
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第14回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵

第14回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵  14から16世紀にかけて、中国の人びとの対日イメージは大きく悪化します。その原因となったのが、倭寇と秀吉の朝鮮出兵です。  倭寇とは、日本を拠点とした武装集団で、中国や朝鮮半島の沿海部を襲っては、略奪を繰り...
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【コラム】耳塚に葬られた明の兵士たち

【コラム】耳塚に葬られた明の兵士たち  秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮だけでなく、中国にも多大な被害を与えました。戦争にかかった費用は1,700万両余り1。当時の明朝の歳入は1,800万両余りといいますから2、歳入のほとんどが戦費に費やされたことに...
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第15回 東アジアの平和の礎となった思想―儒教

第15回 東アジアの平和の礎となった思想―儒教  応仁の乱以来、100年以上続いた戦国時代。人びとは、秩序なき乱世に苦しんでいました。公家の家に生まれた藤原惺窩(ふじわら せいか)もその1人。惺窩は、18歳の時、土豪の襲撃により父と兄を失い...
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【コラム】朱舜水が伝えた孔子像

【コラム】朱舜水が伝えた孔子像  東京の湯島聖堂に1体の孔子像があります。これは明の遺臣・朱舜水が中国から伝えたものといいます。では、なぜ湯島聖堂にこの孔子像があるのでしょうか。  九州の柳河藩に安東守約という儒官がいました。学問好きの彼は...
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第16回 唐通事

第16回 唐通事  江戸時代、キリスト教の拡大を恐れた幕府は、1635年、海外渡航を全面的に禁止し、貿易港を長崎一港に定めました。いわゆる鎖国の始まりです。  翌36年には港の一角にポルトガル人を収容する出島が作られ、41年にポルトガル人を...
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【コラム】唐人屋敷と興福寺・長崎新地中華街

【コラム】唐人屋敷と興福寺・長崎新地中華街  唐人屋敷とは、1689年(元禄2年)、江戸幕府が現在の長崎市館内町に設けた唐人(中国人)居住区のことです。その広さは約9400坪、竹垣と堀に囲まれたその敷地内では、約2000人の唐人が滞在してい...