【コラム】仏教伝来を伝える遺跡群
雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)と向原寺(豊浦寺跡地)
後藤由貴乃
中国の南北朝時代、西域から伝えられた仏教は、やがて東アジア各地に広まっていきました。日本に仏教が伝えられたのは、6世紀ごろ。その伝統は葬儀での諸習俗をはじめ、お盆やお彼岸など、いまも人々の暮らしの中に息づいています。
そんな仏教を、伝来から今日まで見守り続けてきた遺跡があります。奈良県高市郡明日香村にある雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)と向原寺(豊浦寺跡地)です。
6世紀、東アジアは諸民族が複雑に絡み合う、戦乱の時代を迎えていました。中国の北半分を支配していた北魏は東西に分裂し、朝鮮半島でも高句麗、百済、新羅の三国が互いに抗争を繰り返していました。そうした中、日本で生まれ、百済の王に推戴された武寧王は、ヤマト王権との関係を強化することで、朝鮮半島での勢力拡大を図ります。武寧王の跡を継いだ聖明王は、さらに仏教を通じて中国南朝の支援も得ようとしました。南朝梁の武帝は自らを「三宝の奴」と称するほど仏教に深く帰依していたからです。
聖明王は仏教を倭にも伝えました。当時、倭では渡来人の司馬達等やその支援者である蘇我氏によって、仏教の私的な信仰が行われていました。しかし、仏教が外交の場に持ち込まれたことで、物部氏などが強い反対の声を挙げました。外来の宗教を安易に受け入れれば、ヤマト王権の精神的紐帯である神々への信仰が脅かされると考えたのでしょう。このため、聖明王から贈られた仏像や経典は、蘇我氏が小墾田の家に安置し、向原の家を寄進して寺にすることにしました。
ところが全国的に疫病が流行すると、物部氏などは「外国から入ってきた神に日本の神がお怒りになったのだ」と訴え、仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼き払われてしまいました。
その後、寺は再建され、589年、百済に留学した善信尼(司馬達等の娘)は、ここに日本初の尼寺を開きました。
603年、推古天皇はこの寺を豊浦宮の地に移して豊浦寺を建て、寺の跡地に小墾田宮を造りました。608年、隋の裴世清らが第二回遣隋使の答礼使として来朝した際、推古天皇や厩戸皇子(聖徳太子)に謁見したのも、この小墾田宮でした。
一方、豊浦寺は、都が京都に遷るとしだいに衰退し、江戸時代にはその跡地に浄土真宗本願寺派の寺が建立されました。現在の向原寺です。
1987年、明日香村奥山にある雷丘東方遺跡から「小治田宮」と記された土器が発見されました。小墾田宮は『古事記』では「小治田宮」と書かれているため、現在ではこの地が小墾田宮の推定地とされています。
明日香村豊浦にある向原寺からも、戦後の発掘調査によって、塔や金堂、講堂などの遺構が確認されています。
文化庁の『宗教年鑑』によると、令和3年末の時点で、日本の仏教系の信者数は8324万人と、神道系の8724万人に次いで多く、国民の3分の2が仏教の信者であることがわかります。
中国を起点として東アジアに広まった仏教。その日本への伝来の原点とも言えるこれらの史跡を、一度訪ねてみてはどうでしょうか。
雷丘東方遺跡(小墾田宮(おはりだのみや)推定地)
〒634-0102 奈良県高市郡明日香村奥山86
向原寺(豊浦寺跡地)
〒634-0107 奈良県高市郡明日香村豊浦647
奈良文化財研究所飛鳥資料館
〒634-0102 奈良県高市郡明日香村奥山601
参考資料
コメント