第11回 渡来僧から歯医者まで~民間交流の時代へ

日中交流の史跡と文化
国宝「無準師範墨蹟(板渡しの墨蹟)(東京国立博物館蔵)

 1987年、福岡市の旧平和台球場の改修現場から鴻臚館こうろかんの遺構が発見されました。古代、日中の外交や貿易の窓口であった施設で、9世紀末に遣唐使が廃止された後も、民間交流の拠点となっていました。
  その後、11世紀後半になると、民間交流の拠点はその東にある博多に移ります。博多には、唐坊と呼ばれるチャイナ・タウンが作られ、博多綱首と呼ばれる中国の貿易商人たちが人や物の交流を支えていました。
  1235年、聖一国師の諡号(しごう)で知られる円爾(えんに)が、宋への留学のため博多を訪れた時、彼を他宗の迫害から守り、宋へ送り届けたのも、謝国明という博多綱首でした。円爾が留学した浙江径山(きんざん)の万寿寺(まんじゅじ)は、その後、火災に遭いますが、それを知った円爾は、謝に頼んで再建用の板千枚を送りました。この時、師の無準師範(むじゅんしばん)から届いた礼状が、1952年に国宝指定された「無準師範墨蹟(板渡しの墨蹟)」です。
  民間交流が盛んになると、僧侶やさまざまな技術をもった人びとが日本を訪れるようになります。
  鎌倉では、中国から渡来した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)などの高僧が、日本語と中国語を織り交ぜながら、禅の修行を始めました。
  時代は前後しますが、1180年、奈良が平氏の焼き討ちに遭い、東大寺の大仏の頭が焼け落ちた時、その修復に活躍したのも、宋から渡来していた鋳工の陳和卿(ちんなけい)や石工の伊行末らでした。
  奈良では歯科を開業した人もいました。鎌倉時代の僧・無住の『沙石集』にこんな話が載っています。
  奈良に歯取りの唐人がいた。あるケチな人が虫歯を抜いてもらおうと、この唐人を訪ねた。抜歯代は銭2文と決まっていたが、この人は「1文で抜いてくれ」といった。唐人がダメだというと、「ならば3文で2本抜いてくれ」といって、虫歯でない歯も抜いてしまった。
  笑い話のような話ですが、中国口腔医学史の研究者・故周大成氏によれば、当時中国の歯科技術は高く、唐代には、欧米よりも1300年も前に水銀合金を使った詰め物が考案されていたといいます。
  こうした民間交流を通じて、仏教の新たな宗派や技術、医術などが伝えられていたのです。

復元された鴻臚館(鴻臚館跡展示館)

 

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