【コラム】漢字からひらがなへ――奈良薬師寺「仏足跡歌碑」

日中交流の史跡と文化
仏足跡歌碑を所蔵する薬師寺大講堂(奈良県)

鈴木 靖

 古墳時代、日本にはまだ自らの言葉を記す文字はなく、文書はすべて漢文で書かれていました。しかし、奈良・平安時代になり、世界中の使節や商人が集まる唐を訪れた日本の使節や留学生たちは、世界には中国以外にも自らの言葉を自らの文字で記す国々があることを知ります。こうして芽生えた民族文字への憧憬あこがれは、詩を重んじる中国文化の影響とも相俟って、ヤマト言葉で歌われる歌をヤマト言葉のまま記録する『万葉集』編纂の契機となりました。
 とはいえ、民族文字がすぐに作れるわけではありません。はじめは使い慣れた漢字を使ってヤマト歌の記録が試みられました。万葉仮名です。その試みを今日に伝える石碑が、奈良の薬師寺に残っています。『万葉集』と同じ8世紀ごろ作られた仏足跡歌碑です。この歌碑には、753年(天平勝宝5年)に作られた仏足跡を言祝ぐ歌など、計21首のヤマト歌が万葉仮名で刻まれています。

美阿止都久留 伊志乃比鼻伎波(みあとつくる いしのひびきは)
阿米尓伊多利 都知佐閇由須礼(あめにいたり つちさへゆすれ)
知々波々賀多米尓(ちちははがために)
毛呂比止乃多米尓(もろびとのために)

 その後、万葉仮名に使われていた楷書体の漢字は、より速く書くことができる草書体に代わっていきました。万葉仮名の漢字はただの表音文字なので、楷書体で丁寧に書く必要もなかったのでしょう。こうして誕生したのがひらがなです。
 当初はひらがなにもさまざまな漢字が使われていました。しかし中国の音韻学や仏教の悉曇学を学んだ学者や僧侶たちは、全部で47の文字さえあれば、ヤマト言葉をすべて記せることに気づきます。こうして作られたのが「いろは歌」です。

いろはにほへと ちりぬるを(色は匂へど 散りぬるを)
わかよたれそ つねならむ(我が世誰ぞ 常ならむ)
うゐのおくやま けふこえて(有為の奥山 今日越えて)
あさきゆめみし ゑひもせす(浅き夢見し 酔ひもせず)

 「いろは歌」は、承暦3年(1079年)抄写の奥書がある『金光明最勝王経音義こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ1に記されており、平安時代後期の11世紀には誕生していたことがわかります。2010年には、三重県明和町の斎宮跡から、11世紀末から12世紀前半に作られたと思われる「いろは歌」の書かれた土器が発見されています。
 いろは47文字で、仏教が説く諸行無常、盛者必衰の教えを歌った「いろは歌」は、その後、識字教育の教材としても使われ、ひらがなという民族文字の普及に大きな役割を果たしました。
 万葉仮名が記された国宝「仏足跡歌碑」は、薬師寺大講堂で見学することができます。奈良を訪れた際には、ぜひ一度見学してみてはどうでしょうか。

注釈

  1. 「いろは歌」(『金光明最勝王経音義』承暦3年鈔本、大東急記念文庫蔵)→『金光明最勝王経音義』,大東急記念文庫,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2489759 (参照 2023-12-01)

▼仏足跡歌碑拓本(奈良薬師寺蔵)

▼かな漢字対照表

参考資料

  1. 廣瀨裕之、漆原徹、遠藤祐介「薬師寺・佛足跡歌碑の研究Ⅰ:碑面上半部に刻された書とその内容について」(武蔵野教育學論集第10号、2021年3月)
  2. 廣瀨裕之、漆原徹、遠藤祐介「薬師寺・佛足跡歌碑の研究Ⅱ:碑面下半部に刻された書とその内容について」(武蔵野教育學論集第12号、2022年3月)
  3. 川瀬一馬『金光明最勝王経音義解説・索引』(大東急記念文庫 1959年)→国立国会図書館デジタルコレクション

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