【コラム】印刷術の誕生と伝播
中国の四大発明の一つである印刷術は、どのように誕生し、日本へと伝えられたのでしょうか。
印刷術の誕生には、仏教が大きく関わっていたようです。『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘は、晩年、高宗の庇護の下、百万の仏像を造ることを発願し、成就したといいます(『大唐大慈恩寺三藏法師伝』巻十)。では、どのようにして百万もの仏像を造ったのでしょうか。
五代後唐の馮摯の『雲仙雑記』巻五に引く『僧園逸録』によれば、玄奘は彫像ではなく、紙に普賢菩薩像を印刷し、衆生に施したのだといいます。なるほど、それならば百万造るのも無理ではないでしょう。
このように印刷術は、仏の教えを衆生に伝える必要から誕生したようです。1974年、西安市郊外の唐代の墓から梵文陀羅尼咒が出土しました。同時に出土した副葬品から唐代初期のものとされ、中国国内で発見された印刷物としては最古のものですが、これも仏教の陀羅尼(呪文)を印刷したものです。
仏教は印刷術を誕生させただけでなく、その伝播にも大きな役割を果たしました。
8世紀の初め、中央アジアのトカラから来た弥陀山という僧が、無垢浄光大陀羅尼経という経典を漢訳しました。これは釈迦が説いたという滅罪の法と陀羅尼を記した経典です。むかしカピラ城に劫比羅戰荼と呼ばれるバラモンがいました。占い師から余命7日と告げられた彼は、釈迦のもとを訪ねて救いを求めます。すると釈迦は、壊れた仏塔を修理し、その中にこの陀羅尼を納めて供養すれば、寿命を延ばし、極楽浄土に生まれることができると説いたといいます。
無垢浄光大陀羅尼経は、漢訳されるとまもなく、印刷術とともに朝鮮半島や日本に伝えられました。日本では称徳天皇が、764年から770年まで6年をかけて、この経典の中の陀羅尼を抜き刷りし、百万基の木製小塔に納めて、十大寺に分置しています。史上6人目の女性天皇となった称徳天皇ですが、皇室内では皇位継承をめぐって内紛が絶えず、多くの親族や家臣が犠牲となりました。そうした罪業を消滅したいという強い願いがあったのでしょう。これがいまも法隆寺に約4万6千基が伝わる百万塔陀羅尼です。印刷方法については、木版、銅版の二説がありますが、紙の裏面に摺跡が見られないことから、スタンプのように押印したものと考えられています。製作年代が明らかなものとしては世界最古の印刷物とされ、国の重要文化財に指定されています。
韓国でも1966年、慶州にある仏国寺の釈迦塔から、この経典を印刷した巻物が発見されました。経典の全文が印字されており、印刷方法は木版摺であることがわかっています。製作年代については、『三国遺事』によれば、仏国寺の創建は751年であり1、釈迦塔も同じころ建立されたと考えられることから、韓国ではこれを世界最古の印刷物として国宝に指定しています。
こうして誕生した印刷術は、その後東アジア各地で急速な発展を遂げていきました。唐代の末には、暦や占い、字書などの実用書が出版されるようになり、五代十国時代には国家事業として儒教経典の出版が行われました。宋代には畢昇という職人が陶製活字による活版印刷を考案し、13世紀には朝鮮半島で金属活字による活版印刷も始まっています。ドイツのグーテンベルクが金属活字による活版印刷を“発明”したのが15世紀ですから、東アジアではそれよりも200年も早くにこの技術が実用化されていたのです。
法隆寺の大宝蔵院には、この寺に伝わる百万塔陀羅尼の一部が展示されています。日本の草創期の印刷術がどのようなものであったか、一度見学してみてはいかがでしょうか。
▼中国西安市郊外で出土した梵文陀羅尼咒(現存する中国最古の印刷物)
▼韓国慶州仏国寺の釈迦塔から発見された無垢浄光大陀羅尼経
注
- 『三国遺事』巻五 大城孝二世父母 神文代が引く寺中記によれば、仏国寺は「景徳王時代、大相の大城が天宝十年辛卯(751年)に仏国寺を建てはじめ、惠恭王代を経て、大歴九年甲寅(774年)十二月二日に大城が亡くなったので、国が完成した」といい、日本の百万塔陀羅尼と同時期に、20年以上に渡って建築が続けられていたことがわかる。また、釈迦塔から発見された墨書紙片と呼ばれる紙塊が、2005年に解読され、この塔が高麗の太平四年(1024)に一度改修され、その際にも無垢浄光大陀羅尼経二種が納められたことが明らかになった。
『三国遺事』巻五 大城孝二世父母
寺中有記云:景徳王代、大相大城以天宝十年辛卯始創仏国寺。歴恵、恭世、以大歴九年甲寅十二月二日大城卒。国家乃畢成之。
『南海寄帰内法伝』巻四
造泥制底及拓模泥像或印絹紙,隨處供養,或積為聚,以塼裹之即成佛塔,或置空野,任其銷散。西方法俗,莫不以此為業。
『大唐大慈恩寺三藏法師傳』巻十
大帝(高宗李治)以法師先朝所重,嗣位之後禮敬逾隆,中使朝臣問慰無絕,䞋施綿帛、綾錦前後萬餘段,法服、納、袈裟等數百事,法師受已,皆為國造塔及營經像,給施貧窮并外國婆羅門客等,隨得隨散,無所貯畜。發願造十俱胝像,百萬為一俱胝,並造成矣。
『開元釋教錄』卷十九
無垢浄光大陀羅尼經一卷第二出,與實叉難陀離垢浄光大陀羅尼同本
沙門彌陀山,唐言寂友,都貨邏國人也。幼小出家,遊諸印度,遍學經論,於楞伽俱舎最為精妙,志弘像法,無悋鄉邦,杖錫而遊來臻皇闕,於天后代共實叉難陀譯大乘入楞伽經,後於天后末年共沙門法藏等譯無垢浄光大陀羅尼經一部,譯畢進内辭歸邦,天后厚遺,任歸本國。
西暦 | 華暦 | 和暦 | 出来事 |
635 | 貞観9 | 義浄、斉州山茌県に生まれる | |
645 | 19 | 玄奘、帰国 | |
658 | 顕慶3 | 玄奘、百万の仏像を造るという願を成就する | |
671 | 咸亨2 | 義浄、西遊開始 | |
673 | 4 | 義浄、インドに到着し、ナーランダ僧院での修行開始 | |
695 | 証聖元 | 義浄、帰国、武則天、自ら洛陽の上東門外に出迎える | |
705 | 神龍元 | 無垢浄光大陀羅尼経が漢訳される | |
706 | 新羅の首都金城(現慶州)の皇福寺の石塔に無垢浄光大陀羅尼経が納められる | ||
713 | 先天2 | 義浄没 | |
730 | 天平2 | 光明皇后の発願で小塔4基に「無垢浄光大陀羅尼経」を納める(『興福寺流記』) | |
735 | 7 | 玄昉が『開元釈教録』が定める大蔵経5048巻を日本に伝える(「無垢浄光大陀羅尼経」も?) | |
749 | 天平勝宝元 | 聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位 | |
751 | 新羅の景徳王10年、慶州仏国寺の建立開始 | ||
757 | 9 | 橘奈良麻呂の乱 | |
764 | 天平宝字8 | 9月、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱) 称徳天皇の発願により『百万塔陀羅尼』の製作開始 |
|
770 | 宝亀元 | 『百万塔陀羅尼』が完成し、十大寺に分置される | |
868 | 咸通9 | 『金剛般若婆羅蜜経』が印刷される | |
参考資料
- 禿氏祐祥『百萬塔陀羅尼考證』(泉山堂 1933年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 神田喜一郎「中國における印刷術の起源について」(『神田喜一郎全集』第2巻 同朋舎出版 1983年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 川瀬一馬「新羅佛國寺釋迦塔出の無垢浄光大陀羅尼經について」(『書誌学』第33、34号 1984年5月)→国立国会図書館デジタルコレクション
コメント