第9回 「工匠精神」

日中交流の史跡と文化

第9回 「工匠精神」~中国の人びとを驚かせた日本の工芸技術

 中国の人びとの対日イメージの一つに、「工匠精神」があります。日本には精緻で遊び心ある匠(たくみ)の心があるというのです。では、このイメージはどのように作られたのでしょうか。
 唐の蘇鶚(そ がく)の『杜陽雑編(とようざっぺん)』に、こんな話があります。
 穆宗(ぼくそう)の時代(820~24年)、倭国の人・韓(から)志和(しわ)は、からくり細工を得意とし、木で鳥を作って飛ばしたり、猫を作って鼠を捕らえさせたりしていた。その噂は皇帝の耳にも入り、韓志和は皇帝のためにからくり寝台を作ることになった。踏み台を踏むと竜が飛び出す仕組みである。ところが、あまりの迫力に皇帝は仰天。韓志和は罪を償おうと、小箱から数百のからくり蜘蛛を取り出し、音楽に合わせて踊らせたり、蠅を捕らえさせたりした。皇帝は喜び、褒美に銀の碗などを与えた。韓志和は宮門を出ると、それを人びとに分け与え、姿を消してしまった。
 この韓志和という人物、名前は中国風ですが、「倭国の人」と明記されています。
 一方、日本の『今昔物語集』にも、こんな話があります。
 昔、高陽親王(かやしんのう)という、からくり細工の得意な皇子がいた。ある年、親王が建てた京極寺の水田が旱魃で干上がってしまった。親王は子どもの姿をした人形を作り、田に立てた。人形の持つ器に水を入れると、人形の顔に水がかかる仕組みだった。都中の人が集まり、水を入れて興じた。田に水が溜まると、人形を仕舞い、田が涸れると、また人形を立てた。こうして寺の田は旱魃の間も干上がることはなかった。
 高陽親王(賀陽王とも)とは、桓武天皇の皇子で、794年の生まれ、871年没。韓志和とほぼ同時代の人です。律令の施行細則を記した『延喜式』によれば、遣唐使には、工芸技術を学ぶ技術研修生も含まれていたといいますから、日本の遊び心ある匠の技も語り伝えていたことでしょう。あるいは韓志和もこうした技術研修生の1人だったのかも知れません。
 宋代になると、日本からは刀や扇、螺鈿、蒔絵などの工芸品が輸出されるようになります。宋の江少虞の『事実類苑』には、扇絵の描かれた「日本扇」が、都の市で非常な高値で売られていたことが記されています。
 「工匠精神」という日本のイメージは、こうして作られていったのです。

▼賀陽王(菊池武保(容斎)編・画『前賢故実』巻之四より)

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