第10回 かなの誕生

日中交流の史跡と文化
土器片に書かれた仮名(9世紀後半 京都市中京区藤原良相邸宅跡で出土)

 文字はヒトがコトバを記録するために発明した最初の道具です。コトバを音声のまま記録できるようになったいまでも、文字はコトバを伝え合う道具として、私たちの文明を支えています。では、日本語を記録するための文字であるかなは、いつごろ誕生したのでしょうか。
 日本語は初め、漢字を使って表記されていました。いわゆる万葉仮名です。その起源は古く、大阪の難波宮なにわみや跡からは7世紀中頃のものとみられる万葉仮名の書かれた木簡が見つかっています。
 その後、万葉仮名の漢字は整理され、草書体による簡略化も進んで、ひらがなが誕生しました。2012年には京都の平安貴族の邸宅跡から、9世紀後半のものとみられる、ひらがなの書かれた土器片が見つかっています。
 かなが誕生する以前、人びとは中国語(漢文)を学び、日本語を中国語に訳して書いていました。しかし、かなが誕生したことで、日本語を日本語のまま書くことができるようになったのです。10世紀に入ると、『竹取物語』をはじめとして、かなで書かれた文学作品が続々と誕生します。
 かなが誕生した背景には、唐での異文化体験があったと考えられます。遣唐使の時代、唐には世界中からさまざまな国の使節や商人が集まっていました。使節の派遣回数でいえば、遣唐使は15回ですが、大食タージー(アラビア)は37回、波斯(ペルシア)は25回。736年には、遣唐使とともに波斯人も日本を訪れています。
 こうした人びととの交流を通じて、日本は中国以外にも自らの文字で文明を築いた国々があることを知ります。そして「われわれは誰なのか?」を問い直すようになり、自らの言葉を自らの文字で記そうと考えるようになったのです。
 円仁の『入唐求法巡礼行記』によれば、819年、唐の貿易商人・張覚済兄弟が日本の奥州に漂着しました1。それ以降、2年に1度の割合で貿易船が来航するようになると、日中の交流は民間が中心となり、894年、唐の衰退を見た日本は、ついに遣唐使を廃止します。
 こうして唐風文化の時代は終わり、国風文化の時代が始まりました。この国風文化の時代の到来を可能にしたのが、かなだったのです。

  1. 円仁『入唐求法巡礼行記』開元4年(承和6年 839年)正月8日:「新羅人王請来たって相看る。是本国弘仁10年(819)に出州国(出羽国)に流着せる唐人張覚済等と同船の人なり。漂流の由を問うに、申べて云う『諸物を交易するが為に此(揚州)を離れて過海せり。忽ち悪風に遇うて南より流ること三月、出州国に漂着せり云云』と。頗る本国語を解す。」

▼唐の貿易商人の奥州漂着を伝える円仁『入唐求法巡礼行記』

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