【コラム】小石川後楽園
小石川後楽園はもと水戸徳川家の江戸上屋敷の庭園だったところで、寛永6年(1629)、初代藩主徳川頼房によって造営されました。その後、二代藩主光圀の時代に唐門や円月橋などをもつ中国風の庭園に改修され、「後楽園」と名付けられました。この庭園の意匠や命名に関わったのが朱舜水です。この「後楽園」という名前は、朱舜水が宋の范仲淹の『岳陽楼記』の中の「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽(天下の憂うる先に憂い、天下の楽しみて後に楽しむ)」という一節から取ったもので、為政者のあるべき姿を示したものです。
范仲淹(989-1052)は、北宋時代の政治家で、朱舜水と同じく異民族との戦いの中で大きな挫折を経験しました。北宋の康定元年(1040年)、タングート族が建てた西夏との間で激しい戦いが起こりました。戦いは4年に及び、ときの皇帝仁宗は劣勢を挽回するため、辺境の守備に当たっていた范仲淹を副首相に抜擢しました。范仲淹は仁宗の負託に応えるため、慶暦3年(1043年)、冗官・冗兵・冗費(過剰な官吏や兵士、支出)を大幅に削減する“慶暦新政”と呼ばれる制度改革を行いました。しかし、この改革は既得権益層の猛反発に遭い、わずか一年で失敗に終わり、范仲淹も副首相を辞任して地方官に転出しました。そんな失意の中、岳阳楼の重修に事寄せて、自らの思いを記したのが、この『岳陽楼記』です。
朱舜水も満州族が建てた清に国を奪われ、日本に亡命しました。彼は、徳川光圀ら日本の為政者たちが、仁徳ある政治を行うことを期待し、「後楽園」と揮毫した扁額を唐門に掲げました。
唐門は1945年の空襲で焼失してしまいましたが、2021年6月に復元工事が行われ、朱舜水の扁額も焼失前の写真をもとに復元されました。
公園東側の丘の上には、伯夷・叔斉を祀った得仁堂という祠があります。朱舜水を庇護した光圀は、18歳の時、司馬遷の『史記』の伯夷叔斉伝を読み、その仁徳に感銘を受け、この祠を建てました。伯夷・叔斉は、殷代末期の孤竹国の王子で、伯夷は長男、叔斉は三男でしたが、互いに王位を譲りあい、故国を離れて周に身を寄せていました。ところが周の武王が殷の紂王を討つと、これを不忠な行いとして周の粟を食むのを拒み、山に籠って餓死しました。
「伯夷と叔斉は怨んでいたでしょうか」弟子の子貢が尋ねたとき、孔子はこう答えたといいます。「仁を求めて仁を得たり。また何をか怨みん」これが得仁堂という名の由来です。
光圀は、大義名分を重んじ、仁徳ある藩政に努めました。そんな彼にとって後楽園や得仁堂は、自らの生き方を示す指針だったのでしょう。
▼空襲で焼失する前の唐門
▼伯夷・叔斉を祀る得仁堂
▼小石川後楽園園内マップ
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▼小石川後楽園周辺地図
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