【コラム】天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)

日中交流の史跡と文化

天武・持統天皇陵(檜隅大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ
田中美有、若尾莉奈

 天武天皇と、その皇后であり史上3人目の女性天皇である持統天皇は、6世紀から7世紀にかけて、唐の制度に倣い、漢文による国史『日本書紀』の編纂や律令制の導入、日本初の首都都市・藤原京の建設などを行いました。この二人の合葬陵墓が奈良県明日香村にあります。それが天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)です。では、なぜ彼らの陵墓は奈良県明日香村につくられたのでしょうか。
 陵墓が明日香村に建てられた背景の一つに、この地が古くから渡来人たちの土地であったことが挙げられます。当時、日本は白村江の戦いによって唐との関係が悪化していました。遣唐使の派遣も約30年間中止され、大陸の新たな知識や技術が入らなくなっていました。そうした中、天武天皇と持統天皇は、渡来人が集居するこの地を政治の拠点とすることで、彼らの知識と技術を借りて“近代化”を進めようとしたのです。
 二人が行なった“近代化”とは、天武天皇の兄・天智天皇によって損なわれた唐との外交関係を正常化するために進められたものでした。その一環として、「倭」という国号も中国風の「日本」に改められました。「八雲立つ出雲いずも」や「飛ぶ鳥の明日香あすか」と同じく、倭の地を讃える「日の本のやまと」という枕詞から取ったものです。明日香村おかには、二人が政を行った飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやの跡とされる遺跡も残っています。
 天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)は明日香村野口にあり、奈良駅から電車とバスで1時間20分ほどで訪れることができます。日本と唐の国交正常化のために渡来人とともに日本の“近代化”に取り組んだ二人の陵墓を訪ね、日中友好の歴史の一ページに触れてみてはいかがでしょうか。

▼天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)

飛鳥浄御原宮伝承地
〒634-0111奈良県高市郡明日香村岡

天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)
〒634-0145 高市郡明日香村野口

参考文献

大津透・桜井英治編集、岩波書店『岩波講座日本歴史 第一巻』(2013年11月出版)
石井正敏著作集4『通史と史料の間で』版(2018年8月出版)

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