【コラム】日本の万里の長城「水城」

日中交流の史跡と文化
水城跡(福岡県)

白鳥満理奈

韓衣からころもすそに取りつき泣く子らを
置きてぞぬやおもなしにして

 この歌は、大伴家持¹によって集められ、『万葉集』²に収められた防人歌の1つです。母親のいない我が子を残して、遠い九州まで派遣されることになった一人の父親の悲しみが謳われています。
 家持がこのような歌を集めた背景には、白村江の戦い³があります。この戦いに大敗した日本は、唐や新羅が攻めてくることを恐れ、防衛のために筑紫(現在の福岡県)沿岸に防人を置きます。防人は遠く離れた東国⁴から集められ、その任期は3年でした。しかし任期が終わっても帰れなかったり、帰郷の途中で行き倒れになってしまうこともありました。
 敗戦後、唐の制度に倣って改革を進めた倭は、やがて唐の政治の根本にある儒教思想の重要性に気づきます。むかし中国の為政者は、采詩の官と呼ばれる役人が各地から集めた詩を通して、人々の暮らしを窺い、政治の得失を知り、自らを正していました。幼い頃、大宰府で暮らしたことのある家持は、家族や恋人と離れて国境警備に当たる防人の気持ちがよくわかったのでしょう。中国の制度に倣い、彼らの歌を通して、為政者にその実情を伝えようとしたのです。
 現在の福岡県太宰府市にあった大宰府は、防人の指揮所として倭国の防衛の一大拠点でした。白村江の戦いの後、この大宰府を守るため、長大な大堤が築かれました。『日本書紀』によれば、「筑紫に大堤を築いて水を貯えさせ、これを『水城』と名づけた」といい、外濠を備えた防塁であったことがわかります。この「水城」はいまも大宰府の北側にその姿を留めています(「水城跡」)。長さ約1.2km、幅約80m、高さ約9mという長大な防塁で、韓国扶余にある百済時代の城壁跡(「扶余羅城」)と同じ築造技術が使われているといいます。「水城」には東西2つの門があり、大宰府に出入りする人々の出会い・別れの舞台として、数々の物語が生まれていました。
 日本の万里の長城ともいうべきこの「水城跡」を訪れ、その歴史を肌で感じてみてはいかがでしょうか。

  1. 大伴家持(718?~785)
    「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ」という言立ことだて(誓いの言葉)で知られる武門の家に生まれた。少年時代、父旅人に従い大宰府で暮らしたこともあり、天平勝宝7年(755) 、兵部少輔として防人のことを司った際には、その秀歌を集めて、『万葉集』に収めた。
  2. 万葉集
    7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された現存する日本最古の歌集。全20巻からなり、約4500首の歌が収められている。作者層は天皇から農民まで幅広い階層に及び、詠まれた土地も東北から九州に至る日本各地に及ぶ。何人かの編者の手が加わり複雑な過程を経て成立したもので、最終的に大伴家持の手によってまとめられたとされる。巻20 などに収められた防人歌は、天平勝宝7年(755) 、兵部少輔として防人のことを司っていた大伴家持が、東国 10ヵ国の防人部領使さきもりのことりづかい(防人を諸国から難波津まで送る役人)たちに集めさせた防人やその妻たちの歌の中から秀歌を選んだもの。
  3. 白村江の戦い
    660年、百済が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされると、百済の遺臣鬼室福信らは百済復興運動を開始した。これを支援するため、倭国は倭国に滞在していた百済王の太子豊璋とともに援軍を派遣したが、663年、白村江(錦江の河口付近)での海戦で唐・新羅水軍に大敗した。
  4. 東国
    『万葉集』巻20には、防人の出身地として、次の10か国が記されている。遠江とおとうみ(静岡県西部)、相模さがみ(神奈川県)、駿河するが(静岡県中部)、常陸ひたち(茨城県北東部)、上野こうずけ(群馬県)、下野しもつけ(茨城県)、上総かずさ(千葉県中部)、下総しもうさ(千葉県北部と茨城県南部)、信濃しなの(長野県北部)、武蔵むさし(東京都と埼玉県)。

水城跡(水城館)
〒818-0132
福岡県太宰府市国分二丁目17-10
TEL:092-555-8455

大宰府(大宰府政庁跡)
〒818-0101
福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1
TEL:092-921-2121

参考資料

  1. 上野誠『万葉集から学ぼう 日本のこころと言葉 万葉の旅のうた』(ミルヴァ書房、2021年)
  2. 神野志隆光『万葉集鑑賞辞典』(講談社、2010年)

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