柳原瑚子
「そもそも当寺清水寺と申すは、大同二年の御草創、坂の上の田村丸の御願なり」
謡曲『田村』にも謡われているとおり、清水寺は坂上田村麻呂を本願主とする寺です。
平安時代に藤原明衡(989?-1066)が著した「清水寺縁起」によれば、延暦17年(798)、田村麻呂と延鎮聖人が金色十一面四十手観世音菩薩像を造り、仮の宝殿に安置したのが始まりで、延暦24年(805)、寺地を奏請して栢原天皇(桓武天皇)の御願とし、大同二年(807)、三善命婦(田村麻呂の妻・高子)が自邸の寝殿を壊して仏堂を建立したといいます。
▼「田村之屋敷を崩て清水寺伽藍僧房を造り添ける」(土佐光信筆『紙本著色清水寺縁起』永正14年(1517) 東京国立博物館蔵)
では、なぜ田村麻呂夫婦は清水寺を創建したのでしょうか。平安時代の末に編まれた『今昔物語』は、こんな話を伝えています。
いまはむかし、大和国高市郡に賢心という僧がいました。賢心は夢で北に行けとの御告げを受け、淀川に流れる金色の水を辿って、京都の東山に入ります。そこには一つの滝があり、滝の西に行叡という老翁が草庵を結んでいました。行叡は賢心に、
「私はここに住んで200年になる。長い間、そなたを待っていたが、ようやく会うことができた。私はいまから東国へ修行に行く。そなたはここに仏堂を建て、林の木で観音像を造るのだ。」
そう言い終わらぬ中に、姿を消してしまいました。
それから三年後、田村麻呂が産後の妻のために鹿狩りに訪れました。賢心に出会い、行叡の話を聞いた田村麻呂は、家に帰ると、妻の三善高子に山中での出来事を話しました。妻はそれを聞くと、
「私の病を癒やすために命あるものを殺してしまいました。お詫びのしようもございません。どうかその罪を免れるよう、我が家を壊して御堂をお造りください。」
こうして自邸を壊して伽藍を建てると、そこに金色八尺の十一面四十手観音像を造り、安置したといいます。
『今昔物語』は、田村麻呂夫婦が清水寺を創建したわけをこう説明していますが、実際には当時の歴史的背景があるようです。
桓武天皇の時代に行われた平安京への遷都と三度にわたる蝦夷討伐によって、社会は疲弊していました。そこで天皇は805年、藤原緒嗣と菅野真道にこれらの事業の継続の可否について議論を行わせました。歴史に名高い徳政相論です。藤原緒嗣は「方今天下の苦しむ所は、軍事(蝦夷討伐)と造作(平安京造営)なり。此の両事を停むれば百姓安んずらん」と事業の中止を主張する一方、菅野真道にはその重要性を説いて継続を主張しました。もっとも天皇の意思はすでに決まっていたようで、藤原緒嗣の主張に従い、これらの事業は中止となりました。計画されていた四度目の蝦夷討伐も中止となり、田村麻呂と蝦夷との10年に及んだ戦いにも幕が下ろされました。
蝦夷討伐で功を上げ、名将と謳われた田村麻呂でしたが、誤算だったのは公卿たちの狭量さでした。自ら投降し、都まで来た阿弖流為と母禮を、「野性獣心、反覆定まりなし‥‥奥地に放還するは、いわゆる虎を養いて患を遺すなり」と、田村麻呂の助命嘆願を退けて処刑してしまったのです。
蝦夷討伐の中止から2年後の大同2年(807)、田村麻呂の妻三善高子は、自邸の寝殿を壊して御堂を建てました。清水寺ではこの年を創建の年と伝えています。『今昔物語』などが伝える由来譚では、発願の理由を賢心への帰依と鹿狩りへの懺悔としていますが、本当の理由は蝦夷討伐で犠牲となった兵士や蝦夷の人びと、救うことのできなかった阿弖流為と母禮の菩提を弔うことにあったのではないでしょうか。
1994年、阿弖流爲と母禮の故郷である胆沢(現岩手県奥州市水沢)出身者が組織する関西胆江同郷会とアテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会が、清水寺に二人を顕彰する石碑を建立しました。そこには、中央政府の侵攻に抵抗した二人の活躍と、敵将ながら二人の武勇、人物を惜しみ助命を嘆願した田村麻呂の事績が刻まれています。
田村麻呂が鹿狩りの途中で賢心と出会った音羽の滝も、恋愛成就、学業成就、延命長寿のご利益が得られる霊場として人気を集めています。
清水寺の建立から4年後の811年、、田村麻呂は53歳でこの世を去りました。山城国宇治郡来栖村に墓地を賜り、埋葬されました。その所在については、いくつかの候補地がありますが、1919年、京都市山科区で発見された西野山古墳が有力視されています。
▼「田村将軍葬儀於栗栖村」(土佐光信筆『紙本著色清水寺縁起』永正14年(1517) 東京国立博物館蔵)
西暦 | 和暦 | 出来事 |
758 | 天平宝字2 | 坂上田村麻呂、苅田麻呂の子として生まれる |
778 | 宝亀9 | 賢心、淀川を流れる金色の水の源を訪ね、山城国愛宕郡八坂郷東山にある清水滝の草庵で行叡という白衣居士に出会う |
794 | 延暦13 | 田村麻呂、征夷使大伴弟麻呂の副使として桓武朝第二次蝦夷征討に出征 |
798 | 17 | 将監坂上田村麻呂が妊婦の妻・三善高子のため鹿を狩りに行き、賢心と出会い、ともに金色十一面四十手観世音菩薩像を造り、仮の御堂に安置する |
801 | 20 | 田村麻呂、征夷大将軍として桓武朝第三次蝦夷征討に出征 |
802 | 21 | 田村麻呂、造胆沢城使として陸奥国へ派遣され胆沢城を造営 胆沢城造営中、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が種類500余人を率いて降伏 田村麻呂、夷大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等を伴い帰京 |
803 | 22 | 田村麻呂、造志波城使として陸奥国へ派遣され、志波城を造営 |
804 | 23 | 桓武朝第四次蝦夷征討が計画され、田村麻呂、征夷大将軍に任命 |
805 | 24 | 藤原緒嗣と菅野真道が天下の徳政について論争(徳政相論) 寺地を奏請し、栢原天皇(桓武天皇)の御願とする |
806 | 25 | 桓武天皇崩御 |
807 | 大同2 | 三善命婦(高子)が寝殿を壊し運んで仏堂を建立する(清水寺創建) |
811 | 弘仁2 | 田村麻呂没 |
参考文献
- 高橋崇『坂上田村麻呂(新稿版)』(吉川弘文館 1986年)
- 土佐光信筆『紙本著色清水寺縁起』(永正14年(1517) 東京国立博物館蔵)→e国宝
- 田村市 坂上田村麻呂伝説(2013/08/02)
坂上田村麻呂伝説 - 田村市ホームページ - 東北歴史博物館 相澤秀太郎 阿弖流為と坂上田村麻呂(2021/01/09)
阿弖流爲と母禮の顕彰碑と音羽の滝
下図の清水寺本堂(⑬)、いわゆる清水の舞台の南西に阿弖流爲と母禮の顕彰碑(㉝)、東南に音羽の滝(⑳)があります。
〒605-0862 京都市東山区清水1丁目294
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