【コラム】和砂糖問屋の石灯籠

小中彩音 柳原瑚子

 18世紀、江戸時代の日本は「鎖国」の状況下にありました。「鎖国」と聞くと、日本人の海外渡航及び外国人の来訪を一切禁じるというイメージがあるかもしれませんが、制限貿易は継続されており、対馬は朝鮮、薩摩藩は琉球、松前藩は蝦夷、そして長崎ではオランダや清との貿易が行われていました。これらの貿易を通じ、日本からは大量の金銀が流出していました。当時、日本と海外では金銀の比価が大きく異なっていました。日本では金銀比価が1:12のところ、海外では1:15でした。オランダはこの比価の違いを利用して、金を大量に持ち出しました。また、清との貿易では輸入品の対価はもっぱら銀で支払われていました。その結果、江戸幕府の創業以来100年の間に、日本で産出した金の4分の1、銀の4分の3が海外に流出してしまいました。こうした現状に危機感を抱いた新井白石は、貿易制限を提唱します。それが1715年に出された海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)です。
 それと同時に、幕府内では輸入品の国産化にも目が向けられるようになりました。特に砂糖は寛永期から享保期にかけての貿易船に必ず積戴されており、金銀流出に大きく関わっていました。黒砂糖と白砂糖はどちらも高級な嗜好品や薬として重宝されていたのです1。将軍徳川吉宗はまず、黒砂糖の主要な生産地であった薩摩藩から人を呼び、砂糖の国産化政策を始めました2。奄美大島を始めとした薩摩藩による砂糖生産は元禄年間に始まり3、1750年頃には黒砂糖の輸入がほぼなかったことから、その頃までには国内の需要を満たす量まで生産できていたと考えられています4
 その後1761年には、実業家の池上幸豊も砂糖生産に参画します。老中田沼意次の後押しもあり、池上は砂糖の製造方法を全国に広めていきました5。その成果の一つが高松藩産の砂糖です。「和三盆」の名で親しまれるこの砂糖は、いまでも香川県の特産品の一つとなっています。
 こうした官民双方の努力の結果、砂糖作りは日本全国に広まっていきました。1800年代前半には白砂糖の価格推移が米の価格推移とほぼ同様になりますが6、これはかつて輸入品ばかりであった砂糖の価格が、国内物価と連動するようになったことを示すものであり、砂糖が国内で自給できるようになったことの表れだと指摘されています。
 こうして国産化された砂糖は問屋を通じて広く普及し、庶民の手にも届くようになりました。また幕末の開国によって、再び金銀の大量流出が始まるまでの間、国内経済を安定させる一助ともなったのです。

砂糖問屋の石灯籠
 正徳3年(1713)、薩摩産の黒砂糖が大坂の薩州問屋を経て販売されるようになったのを初めとして、寛政6年(1794)からは紀州・讃岐などの国内産白砂糖が大坂の薬種問屋を経て、全国に輸送されるようになりました。天保5年(1834)には、国産白砂糖を専門に扱う和砂糖問屋の株仲間も結成されました。
 大坂の問屋から全国へは、海路を通じて運ばれました。海上交通の守護神として知られる大坂の住吉大社には、天保11年(1840)に和砂糖問屋が航海の安全を祈願して奉納した石灯籠が残っています。
 一方、砂糖の最大の消費地は、江戸でした。当初は薬種問屋50軒が大坂から運ばれた砂糖を扱っていましたが、享和年間(1801-04)以降、その中の30数軒が砂糖問屋になったといいます。鎌倉の鶴岡八幡宮には、文久2年(1862)に江戸・大坂の砂糖問屋が奉納した2つの石灯籠が残っています6

(写真イメージ)

  1. 落合功「近世における砂糖貿易の展開と砂糖国産化」(修道商学第12巻第1号 2001年)
  2. 荒尾美代「内外の伝統的な砂糖製造法(4)~吉宗の国産化政策と薩摩藩のさとうきび」(独立行政法人農畜産業振興機構 https://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000344.html 2023-12-16閲覧)
  3. 同注1
  4. 千石鶴義「和製砂糖開産史の研究―池上幸豊の製糖法伝法を中心に」(法政史学第43号 1991年3月)
  5. 同注1
  6. 八百啓介「江戸時代の砂糖食文化 ~砂糖の流通と砂糖菓子」(2011年4月 独立行政法人農畜産業振興機構 https://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html 2024-01-18閲覧

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