【コラム】渡来人
平安京に都を移した桓武天皇は、延暦18年(799)、諸氏族に本系帳の進上を命じました。本系帳とは、各氏族の由来と系譜を記した家系図です。弘仁6年(815)、こうして集められた本系帳をもとに、諸氏族の由来と系譜をまとめた『新撰姓氏録』が編纂されました。
『新撰姓氏録』には、京畿(平安左右京・山城・大和・摂津・河内・和泉)に暮らす1182の氏族の由来と系譜が、皇別(天皇家に由来する335氏族)・神別(神々に由来する404氏族)・藷蕃(渡来系の326氏族)・未定雑姓(117氏族)に分けて記載されています。
藷蕃の氏族は、漢、百済、高麗、新羅、任那の5種に分けられています。漢とは、中国にルーツを持つ漢族系渡来人のことで、秦室の末裔と称する秦氏1と、漢室の末裔と称する漢氏2がありました。
厩戸皇子(聖徳太子)の側近として知られる秦河勝は秦氏、征夷大将軍として蝦夷との戦いに活躍した坂上田村麻呂は漢氏の一族です。
漢族系渡来人の多くは、古墳時代に日本列島に渡来しました。西晋の滅亡によって、華北が異民族に支配されると、中国が朝鮮半島に置いた楽浪・帯方の二郡は陸の孤島となり、313年、楽浪郡は高句麗に、帯方郡は韓・濊族に滅ぼされてしまいました。こうして行き場を失った漢族の一部が、百済などを経て、倭に渡ったのです。
百済、高麗、新羅などの朝鮮系渡来人の多くは、飛鳥時代に渡来しました。原因となったのは、この時期、東アジアで起こった大統一の動きです。中国では全土を統一した隋が高句麗への遠征を開始します。朝鮮半島では、新羅が隋のあとを受けた唐と手を結んで百済と高句麗を滅ぼし、さらに唐の影響力も排除して半島を統一しました。こうした中、国を滅ぼされた百済や高句麗の人々や、戦乱を逃れた新羅の人々が倭に渡ったのです。
日本の各地には、こうした渡来人たちの始祖を祀った神社がいまも残っています。
秦氏の本拠地であった京都府太秦には始皇帝・弓月君・秦酒公を祀った大酒神社、東漢氏の本拠地であった奈良県明日香村には、阿知使主神夫妻を祀った於美阿志神社、高句麗系渡来人を集めて高麗郡が設置された埼玉県日高市には、高句麗の王族の一人とされる高麗若光を祀った高麗神社があります。
注
- 『日本書紀』巻第十、應神天皇紀
十四年‥‥弓月君自百濟來歸、因以奏之曰「臣、領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。」爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅。然、經三年而襲津彥不來焉。‥‥十六年‥‥八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵詔之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。
『新撰姓氏録考證』卷之十八,左京諸蕃上
太秦公宿彌,秦始皇帝(十)三世孫孝武王之後也。男功滿王,足仲彦天皇(諡仲哀)八年來朝。男融通王(一曰弓月王)譽田天皇(諡應神)十四年來朝,率二十七縣百姓歸化,獻金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇(諡仁德)御世,以百二十七縣秦氏分置諸郡,即使養蠶織絹貢之。天皇詔曰「秦王所獻絲綿絹帛,朕服用柔軟、溫暖肌膚」賜姓波多公。秦公酒,大泊瀬幼武天皇(諡雄略)御世絲綿絹帛悉積如岳,天皇喜之,賜號曰禹都萬佐。 - 『日本書紀』巻第十、應神天皇紀
廿年秋九月、倭漢直祖阿知使主・其子都加使主、並率己之黨類十七縣而來歸焉。
『坂上系圖』(『續群書類從』第七輯下系圖部)
『姓氏錄』第廿三卷曰「阿智王。譽田天皇(諡應神)御世,避本國亂,率母並妻子、母弟迁興德、七姓漢人等歸化。七姓者第一段(古記,段光公,字畐等。一云員姓)是高向村主高向史、高向調使、評首、民使王首等祖也。次李姓,是刑部史祖也。次皀郁姓,是坂合部首、佐大 首等祖也。次朱姓,是小市佐、秦宜等祖也。次多姓,是檜前調使等 祖也。次皀姓,是大和國宇太郡佐波多村主長幡部等祖也。次高姓,是檜前村主祖也。天皇矜其来志,號阿智王為使主,仍賜大和國檜隈 郡郷居之焉。于時阿智使主奏言:“臣入朝之時,本郷人民往離散。今 聞偏在高麗、百濟、新羅等國。望請遣使喚来。“天皇即遣使喚之。大鷦鷯天皇(諡仁德)御世,舉落随来。今高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸村主、長野村主、俾加村主、茅 沼山村主、高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村 主、額田村主、牟佐村主、甲賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村 主、今来村主、石寸村主、金作村主、尾張次角村主等,是其後也。爾時阿智王奏:“建今来郡,後改號高市郡,而人衆巨多,居地隘狭,更分置諸国。”摂津、参河、近江、播磨、阿波等漢人村主,是也。
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