第1回 わたしの祖先は縄文人?

日中交流の史跡と文化
三内丸山遺跡(青森県青森市)

日中文化交流史 第1回
わたしの祖先は縄文人?

 大学で日中文化交流史という授業を担当しています。その第一回にこんなクイズを出しています。二人のアジア人女性の写真をスクリーンに映してどちらが日本人かを当てるのです。学生の選択はほぼ半々。中国や韓国の留学生もいるので選んだ理由を聞いてみると「どちらが日本人かは一目でわかります」といいます。
 ところがこの写真、実はどちらも日本人ではありません。一枚は中国の女優さん、もう一枚は韓国の女優さんなのです。
 なぜこんなクイズを出すのかというと、アジアに生きる私たちが実はとても近い関係にあることに気づいてほしいからです。
 学校では日本の歴史は縄文時代に始まると学びます。では日本人の祖先はみな縄文人なのでしょうか。歴史人口学の研究で知られる鬼頭宏氏によれば、縄文時代の人口はピーク時でも26万人ほど、寒冷期となった晩期には8万人弱まで減少します。それが弥生時代になると60万人近くまで急増したというのです。その間に人々の姿も大きく変りました。発掘された頭骨などから日本人の形成を研究した埴原和郎氏は、この変化はアジアから新たな集団が到来して縄文人と混血した結果だとする二重構造説を唱えました。
 埴原氏の説は近年、分子人類学という新たな学問によって証明されつつあります。分子人類学というのは細胞の中にあるDNAを使って私たちの祖先やヒトの系統を明らかにする学問です。2018年には篠田謙一氏を代表とする国立科学博物館のチームがこの方法を使って縄文人、弥生人、現代の日本人、韓国人、中国人などの遺伝的距離を調査しました。その結果は驚くべきものでした。遺伝的に見た場合、現代の日本人は縄文人より韓国人に近く、縄文人と中国人の中間に位置することがわかったのです。
 人は「体」と「心」からできています。分子人類学の研究によって、私たちの「体」は他のアジアの人々と遺伝子という絆で結ばれていることがわかりました。では「心」はどうでしょうか。次回からは私たちと他のアジアの人々の「心」を繋ぐ文化交流の歴史を振り返ってみることにしましょう。

〔図〕縄文人と現代の東アジア集団の遺伝的関係【出典】科学研究費助成事業研究成果報告書「全ゲノム解析法を用いた縄文人と渡来系弥生人の関係の解明」研究代表者:篠田謙一、独立行政法人国立科学博物館 2018年より

現代に姿を現した古墳人
 古墳時代の日本人は、どんな姿をしていたのでしょうか。ここでは、火山の噴火で封印された古墳時代の遺跡と、そこから発見された古墳人を紹介しましょう。
 群馬県にある榛名山(はるなさん)は、山頂には榛名富士と榛名湖、麓には伊香保温泉がある美しいリゾート地ですが、実はいまも活動を続ける活火山の一つです。5世紀ごろには火山活動が活発化し、6世紀には数度にわたり大規模な噴火が起こりました。その結果、この地にあった集落や農地、古墳などが火山灰や火砕流によって地下に埋没してしまいました。日本のポンペイとも呼ばれる金井東裏遺跡です。
 2012年、この遺跡から甲(よろい)を身につけた古墳時代の男性の遺骨が発見されました。6世紀初頭に起こった大噴火によって生き埋めになったもので、群馬県立歴史博物館が行った「よみがえれ!古墳人プロジェクト」では、出土した頭骨をもとに、この人物の復元模型が作られています1
 古墳時代は、中国の南北朝時代に当たります。中国の北半分が異民族の支配下に入ったことで、朝鮮半島にあった中国の直轄地(楽浪郡・帯方郡)は滅ぼされ、多くの漢族系遺民が日本に渡りました2。また、中国の南朝からもさまざまな技能を持った人々が渡来したことが、『日本書紀』などに記録されています3。近年では、古墳人の人骨のDNA分析によって、それを裏付ける研究も発表されています。古墳時代、東アジアから多くの人々が渡来したことで、現代日本人の遺伝的特徴が作られたというのです4
 この金井東裏遺跡の古墳人も、渡来系ではないかといわれています。確かに復元模型を見ていたら、中国の俳優・林永健さんを思い出してしまいました。似ていませんか?

▼金井東裏遺跡の「甲を着た古墳人」 ▼中国の俳優林永健さん

渋川市埋蔵文化財センター
〒377-0062 群馬県渋川市北橘町真壁2372番地1
渋川市北橘行政センター2階(文化財保護課 東側)

参考資料

  1. なるほど遺跡塾 第3回 「よみがえれ古墳人プロジェクトの内容は?」(渋川市公式チャンネル)
  2. 西本昌弘「楽浪・帯方二郡の興亡と漢人遺民の行方」(古代文化第11巻10号、1989年10月)
  3. Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations, SCIENCE ADVANCES 17 Sep 2021 Vol 7, Issue 38
  4. 報道発表「パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造」(金沢大学ほか 2021年9月21日)
  5. たとえば、奈良県の明日香村に栗原という地域があります。ここはもと呉原と呼ばれていました。その由来を『日本書紀』雄略天皇紀はこう伝えています。「十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、吳国の使とともに、吳の献ずるところの手末才伎・漢織・吳織及び衣縫兄媛・弟媛等を将いて、住吉の津に泊まる。(中略)三月、臣連に命じ呉の人を檜隈野に安置す。よって吳原と名づく。」
    身狹靑(むさのあお)、姓は村主(すぐり)は、呉の孫権の末裔と称する渡来人で、ヤマト王権で外交を担当していた人物です。雄略天皇の命で中国南朝に使いした彼は、中国からの返礼使とともに、機織りや裁縫の技術を持つ職人を連れて、住吉の津に帰還しました。これら中国の職人たちは、渡来人が集居していた檜隈(奈良県高市郡明日香村周辺)に土地を与えられ、王権に仕えるようになりました。そこで、この地は呉原と呼ばれるようになったというのです。

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