現代に姿を現した古墳人
古墳時代の日本人は、どんな姿をしていたのでしょうか。ここでは、火山の噴火で封印された古墳時代の遺跡と、そこから発見された古墳人について紹介しましょう。
群馬県にある榛名山は、美しいリゾート地です。山頂には榛名富士と榛名湖、麓には伊香保温泉があります。一方、この山はいまも活動を続ける活火山でもあります。5世紀ごろには火山活動が特に活発化し、6世紀には数度にわたり大噴火が起こりました。その結果、この地にあった集落や農地、古墳などが火山灰や火砕流によって地下に埋没しました。日本のポンペイとも呼ばれる金井東裏遺跡です。
2012年、この遺跡から甲を身につけた古墳時代の男性の遺骨が発見されました。6世紀初頭に起こった大噴火によって生き埋めになったもので、群馬県立歴史博物館が行った「よみがえれ!古墳人プロジェクト」では、出土した頭骨をもとに、この人物の復元模型が作られています1。
古墳時代は、中国の南北朝時代に当たります。中国の北半分が異民族の支配下に入ったことで、朝鮮半島にあった中国の直轄地(楽浪郡・帯方郡)は滅ぼされ、多くの漢族系遺民が日本に渡りました2。また、中国の南朝からもさまざまな技能を持った人々が渡来したことが、『日本書紀』などに記録されています3。近年では、古墳人の人骨のDNA分析によって、それを裏付ける研究も発表されています。古墳時代、東アジアから多くの人々が渡来したことで、現代日本人の遺伝的特徴が作られたというのです4。
この金井東裏遺跡の古墳人も、渡来系ではないかといわれています。確かに復元模型を見ていたら、中国の俳優・林永健さんを思い出してしまいました。似ていませんか?
▼金井東裏遺跡の「甲を着た古墳人」![]() |
▼中国の俳優林永健さん![]() |
渋川市埋蔵文化財センター
〒377-0062 群馬県渋川市北橘町真壁2372番地1
渋川市北橘行政センター2階(文化財保護課 東側)
参考資料
- なるほど遺跡塾 第3回 「よみがえれ古墳人プロジェクトの内容は?」(渋川市公式チャンネル)
- 西本昌弘「楽浪・帯方二郡の興亡と漢人遺民の行方」(古代文化第11巻10号、1989年10月)
- Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations, SCIENCE ADVANCES 17 Sep 2021 Vol 7, Issue 38
- 報道発表「パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造」(金沢大学ほか 2021年9月21日)
- たとえば、奈良県の明日香村に栗原という地域があります。ここはもと呉原と呼ばれていました。その由来を『日本書紀』雄略天皇紀はこう伝えています。「十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、吳国の使とともに、吳の献ずるところの手末才伎・漢織・吳織及び衣縫兄媛・弟媛等を将いて、住吉の津に泊まる。(中略)三月、臣連に命じ呉の人を檜隈野に安置す。よって吳原と名づく。」
身狹村主靑は、呉の孫権の末裔と称する渡来人です。身狹は地名で、現在の奈良県橿原市見瀬町にその名を残しています。村主は古代朝鮮語に由来するという姓で、主に渡来系の氏族に与えられていました。
ヤマト王権で外交を担当していた彼は、雄略天皇の命で中国南朝に使いし、中国からの返礼使とともに、機織りや裁縫の技術を持つ職人を連れて、住吉の津に帰還しました。これら中国の職人たちは、渡来人が集住していた檜隈(奈良県高市郡明日香村周辺)に土地を与えられ、王権に仕えるようになりました。そこで、この地は呉原と呼ばれるようになったというのです。
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