はじめに 朱舜水が残した友好の遺産

日中交流の史跡と文化

はじめに 朱舜水が残した友好の遺産

 魯迅の旧友だった許寿裳は、日本留学時代の魯迅について、こんなエピソードを紹介しています。
 魯迅が仙台で医学を学んでいた時のこと。東京へ戻る途中にふと立ち寄った水戸で、彼は意外な経験をしました。
 水戸に立ち寄ったのは、朱舜水の足跡を訪ねるためでした。朱舜水は明朝の遺臣で、王朝復興の夢が破れた後、日本に亡命し、水戸光圀の庇護の下、安積(あさか)覚(さとる)などの人材を育て、前期水戸学の発展に寄与した人物です。
 魯迅は、ここである旅館に宿をとりました。旅館の主人は、若い魯迅をただの貧乏学生と思い込み、安い部屋に案内しました。ところが宿帳に書かれた国籍を見て仰天。慌てて高級な部屋に移しました。
日清戦争以後、日本ではアジア蔑視の風潮が広まっていました。しかし、水戸の人びとは、学問を伝えてくれた朱舜水と中国に敬慕の念をもち続けていたのです。魯迅は、この経験がよほど嬉しかったのでしょう、許寿裳にその様子を詳しく語っていたといいます。
 朱舜水は学問だけでなく、中国の食文化も伝えたといいます。白牛酪(中国風チーズ)や餃子、火腿(中国風ハム)など。水戸では、これらを使った「黄門料理」という新たな郷土料理も生まれています。
東京の小石川後楽園は、もと水戸藩の江戸上屋敷だったところですが、ここにも朱舜水が設計したという中国風庭園や円月橋(アーチ橋)が残っています。2021年には、戦災で焼失した唐門も再建され、朱舜水が命名揮毫した「後楽園」の扁額も復元されました。
 「後楽園」は、宋の范仲淹(はん ちゅうえん)の『岳陽楼記』の中の「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」(世の人びとが憂える前に憂い、世の人びとが楽しんだ後に楽しむ)から取ったもので、人の上に立つ者のあるべき姿を示しています。
 常陸太田市にある瑞龍山には、歴代の水戸藩主の墓とともに、中国式の墓が一つ建てられています。墓石には光圀が揮毫した「明徴君子朱子墓」の文字。朱舜水は、弟子たちに看取られながら82歳で永眠し、いまもここに眠っています。
 日本各地には、いまもその交流の証となる文化や史跡が残されています。各地に伝わる文化や史跡を訪ねて、交流の歴史を温める友好ツーリズムを楽しんでみませんか。

朱舜水木像
 朱舜水(1600-1682)は、中国浙江省余姚出身の儒学者で、名は之瑜、字は魯璵といいました。明朝滅亡後、日本に亡命し、筑後柳河藩の儒者安東省菴の支援を受け、長崎で暮らしていましたが、寛文5年(1665)、徳川光圀に招かれて江戸に移り、82歳で亡くなるまで、儒教思想や中国の文化を伝えました。

朱舜水の没後、光圀の命で「舜水画像」が描かれました。この絵をもとに、五代藩主徳川宗翰の時に作られたのが「朱舜水木像」です。長崎の名工・前田藤内の作と伝えられています1
「朱舜水木像」は、水戸徳川家に伝わる美術品・工芸品や彰考館旧蔵の古文書とともに、公益財団法人徳川ミュージアムに所蔵されています。公益財団法人徳川ミュージアム
〒310-0912 茨城県水戸市見川1丁目1215−1

  1. 国府種徳「水戸義公の賓師たる朱舜水」(『朱舜水』朱舜水記念会 1912年)p.18

▼朱舜水木像


参考文献

  • 『朱舜水』(朱舜水記念会 1912年)
  • 石原道博『朱舜水』(吉川弘文館 1961年)
黄門料理
 朱舜水は、日本の弟子たちの求めに応じて、中国式の手紙の書き方や孔子廟の図、中国語の語彙などを伝えました。これを舜水の一番弟子である安積覚(『水戸黄門』の格さんのモデルという人物です)がまとめたのが、『舜水主朱氏談綺』三巻です。
 中国文化事典ともいうべきこの本の下巻「飲食」の部には、饅頭や餃子、月餅など、中国のさまざまな食文化が紹介されています。
水戸の老舗「大塚屋」の大塚子之吉氏は、光圀が食したという医食同源に基づく料理を研究して現代風にアレンジし、1977年に黄門料理として売り出しました。そのメニューの中には、朱舜水が伝えたという白牛酪(チーズ)や福包(鴨肉の餃子)なども含まれています。
 大塚氏は2008年に亡くなり「大塚屋」も閉店してしまいましたが、水戸商工会議所はこれを新たな郷土料理としようと商標とレシピを受け継ぎ、商標登録を行った市内の料亭やホテルで提供しています。(「黄門料理」水戸商工会議所

▼『舜水主朱氏談綺』下巻【出典】朱舜水著・安積覚編『舜水朱氏談綺』下巻(ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター)

参考文献
・小菅桂子『水戸黄門の食卓』(中央公論社,1992年)

 

小石川後楽園
 小石川後楽園はもと水戸徳川家の江戸上屋敷の庭園だったところで、寛永6年(1629)、初代藩主徳川頼房によって造営されました。その後、二代藩主光圀の時代に唐門や円月橋などをもつ中国風の庭園に改修され、「後楽園」と名付けられました。この庭園の意匠や命名に関わったのが朱舜水です。この「後楽園」という名前は、朱舜水が(宋)范文正『岳陽楼記』の「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」という一節から取ったもので、為政者のあるべき姿を示しています。
 唐門は戦災で焼失していましたが、2021年6月に復元されました。門には、焼失前に撮影された写真をもとに、朱舜水が揮毫した扁額も復元されています。

▼朱舜水がデザインしたと伝えられる円月橋

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