【コラム】壱岐島原の辻遺跡と「貨泉」

日中交流の史跡と文化



青木観雪

 邪馬台国を訪れた魏の使節の足跡を伝える遺跡の一つに、壱岐島の原の辻はるのつじ遺跡があります。ここには弥生時代の環濠集落跡があり、『魏志倭人伝』が記す「一支国」の王都跡ではないかと考えられています。
 『魏志倭人伝』によると、「一支国」は「水田を耕しても食料には足らず、やはり、南や北と交易をして暮らしている」とあり、外部との交易や交流が、人々の生活にとって非常に重要であったことがわかります。実際、発掘調査からも、日本最古の船着き場跡や様々な地域由来の土器、中国銭など、それを裏付ける遺跡や文物が出土しています。
 1999年、この遺跡から「貨泉」という中国銭が出土しました。これは前漢と後漢の間の新(紀元8年~23年)の時代に鋳造されたもので、新が15年という短期間で終わったために、出土文物の年代の同定にも使われている銅銭です。
 ところで、この「貨泉」、なぜ「貸銭」の「銭」の字に「泉」という字が使われているのでしょうか。これについては、『後漢書』光武帝本紀に次のような逸話が紹介されています。
 漢の帝位を簒奪し、新を立てた王莽おうもうは、漢の劉氏が再起するのを恐れ、「劉」の字の中の「金」や「刀」を含む「銭」を、同じ発音の「泉」に変えて貨幣に刻んだというのです。
 もっとも皮肉なもので、この「貨泉」も分解してみると、「泉」は「白水」、「貨」は「眞人」となります。この「白水真人(白水に真の天子あり)」の文字が示すとおり、その後、湖北省白水郷から起こった劉秀が、王莽の新を滅ぼし、漢王朝を再興したのです。劉氏の再起を恐れて改名したつもりが、かえって逆効果になってしまったわけです。この「白水真人」は、漢王朝の再興を予言した言葉として、また貨幣の別称としても使われるようになりました。
 原の辻遺跡から2キロほど離れたところには、壱岐市立一支国いきこく博物館があります。「海を介した交流と交易の歴史」に焦点を当て、壱岐の歴史を東アジアという広い視点から紹介しており、弥生時代の日中交流について学べる施設となっています。国指定重要文化財に指定された「貨泉」も、ここに展示されていますので、ぜひ一度足を運んではいかがでしょうか。

▼原の辻遺跡出土「貨泉」(壱岐市立一支国博物館蔵)
(写真)壱岐市教育委員会文化財課提供


壱岐島原の辻遺跡

〒811-5322 長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触1092-1
☎0920-45-2065
〔参考〕実りの島壱岐・壱岐観光ナビ「原の辻遺跡」

壱岐市立一支国博物館
〒811-5322長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触515-1
☎0920-45-2731
〔参考〕実りの島壱岐・壱岐観光ナビ「一支国博物館」

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