日中交流の史跡と文化

日中交流の史跡と文化

【コラム】陳和卿とと河内の鋳物師たち

水島彩花  平安時代の末の1180年、平家の南都焼打により、奈良の町は焼け野原となり、奈良の大仏も頭や手が焼け落ちてしまいました。翌1181年、藤原行隆を勅使として破損状況の検分が行われましたが、同行した10余人の鋳師たちは「人力の及ぶとこ...
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第12回 海を渡った画家~雪舟

第12回 海を渡った画家~雪舟  9世紀末に遣唐使が廃止されて以降、500年続いた民間交流の時代は、明朝(1368~1644年)の成立によって幕を閉じます。モンゴルの支配を脱した明朝は、海外との交流を朝貢のみに限ったため、日中の交流も勘合符...
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【コラム】雪舟が中国留学で得たものとは?

新井梨紗 清水玲奈  雪舟の作品は、天橋立図、秋冬山水画、四季山水図巻、破墨山水図、慧可断臂図、山水図の計6作品が国宝指定されており、画家の中では最多です。また重要文化財に指定されている作品も19点あります。  このように、いまでは日本中世...
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第13回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵

第13回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵  14から16世紀にかけて、中国の人びとの対日イメージは大きく悪化します。その原因となったのが、倭寇と秀吉の朝鮮出兵です。  倭寇とは、日本を拠点とした武装集団で、中国や朝鮮半島の沿海部を襲っては、略奪を繰り...
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【コラム】耳塚に葬られた明の兵士たち

松井亜唯里  秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮だけでなく、中国にも多大な被害を与えました。戦争にかかった費用は1700万両余り1。当時の明朝の歳入は1800万両余りであったといいますから2、歳入のほとんどを戦費に費やしたことになります。  2度の出兵...
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第14回 東アジアの平和の礎となった思想―儒教

応仁の乱以来、100年以上続いた戦国時代。人びとは、秩序なき乱世に苦しんでいました。公家の家に生まれた藤原惺窩(ふじわら せいか)もその1人。惺窩は、18歳の時、土豪の襲撃により父と兄を失いました。1598年、秀吉の朝鮮出兵で日本に拉致され...
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第15回 唐通事

江戸時代、キリスト教の拡大を恐れた幕府は、1635年、海外渡航を全面的に禁止し、貿易港を長崎一港に定めました。いわゆる鎖国の始まりです。  翌36年には港の一角にポルトガル人を収容する出島が作られ、41年にポルトガル人を追放すると、平戸にあ...
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【コラム】唐人屋敷と興福寺・長崎新地中華街

山﨑穂波  唐人屋敷とは、1689年(元禄2年)、江戸幕府が現在の長崎市館内町に設けた唐人(中国人)居住区のことです。その広さは約9400坪、竹垣と堀に囲まれたその敷地内では、約2000人の唐人が滞在していたと言います。一つしかない出入口で...
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第16回 科学技術を伝える~『農政全書』と『天工開物』

「(日本との貿易で)中国人は砂糖で千パーセント儲け、オランダ人もほぼこれと同じくらいの利益を上げている」。モンテスキューが『法の精神』のなかでこう語ったように、江戸時代、鎖国政策による砂糖価格の高騰は、日本の経済を大きく圧迫していました。そ...
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【コラム】和砂糖問屋の石灯籠

小中彩音 柳原瑚子  18世紀、江戸時代の日本は「鎖国」の状況下にありました。「鎖国」と聞くと、日本人の海外渡航及び外国人の来訪を一切禁じるというイメージがあるかもしれませんが、制限貿易は継続されており、対馬は朝鮮、薩摩藩は琉球、松前藩は蝦...