第8回 坂上田村麻呂と諸葛孔明

日中交流の史跡と文化

第8回 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろと諸葛孔明

 奈良時代から平安時代の初め、日本の朝廷は蝦夷えみしの人びとが暮らす奥州おうしゅう(現在の東北地方)に勢力を拡大していきます。しかし騎射に優れた蝦夷の人びとの抵抗は激しく、789年の第1回胆沢いさわ(岩手県奥州市)遠征では、朝廷軍側に千人以上の死者が出ました。この戦いで、蝦夷を勝利に導いたのが阿弖流為アテルイです。
 朝廷はさらに794年と801年の二度に渡り、遠征軍を派遣します。朝廷との10年以上の戦いに疲れた阿弖流為らは、802年、兵士500余人を率いて投降しました。
 阿弖流為ともう一人の首領・母礼モレは、京都に送られ、処刑が決まります。ところが、これに異を唱えたのが、征夷大将軍として朝廷軍を率いた坂上田村麻呂でした。彼は阿弖流為らを奥州に帰し、蝦夷の人びとを招撫(しょうぶ)するよう訴えたのです。
 『三国志演義』の中にこんな話があります。劉備の死後、蜀の南では異民族の王・孟獲もうかくが叛乱を起こします。宰相の諸葛孔明は、自ら平定に向かい、孟獲を7回とらえては7回ゆるし、ついに彼を心から帰順させたのです。
清の章学誠が「七分の実事、三分の虚構」と評したように、『三国志演義』の内容は虚実交々こもごもなのですが、この話は東晋の習鑿齒しゅうさくしの歴史書『漢晋春秋』にも見えるので、全くの虚構ではないようです。
 では、田村麻呂はなぜ孔明と同じような招撫策を訴えたのでしょうか。
 彼の父・坂上苅田麻呂(さかのうえの かりたまろ)によれば、坂上氏一族は、三国志の時代に中国から朝鮮半島に渡り、応神天皇の時代に日本に渡来した中国系渡来人だといいます。田村麻呂は、父祖からこの大陸的な民族政策を聞き、蝦夷との共生を模索したのかもしれません。
 しかし、京都の公卿らは「蝦夷は野獣のようなもので信用が置けない。せっかく捕らえた元凶を再び奥州に帰したのでは、虎を養ってうれいをのこすようなものだ」といって、阿弖流為らを処刑してしまいました。
 1994年、阿弖流為と母礼の慰霊碑が、京都の清水寺に建立されました。この寺は田村麻呂が開基となって創建されたといいます。千二百年の時を経て、三人の目にいまの日本はどう映るのでしょうか。

▼阿弖流爲・母禮之碑(京都清水寺)

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