第12回 元寇を止めようとした女真人
唐王朝が滅んだ後、中国は征服王朝の時代を迎えます。契丹族の遼は中国の北辺、女真族の金は華北、モンゴル族の元はやがて中国全土を支配下に収めることになります。
こうした中、起こったのが元寇です。もっともこれは突然起こったことではありません。元は第一回侵攻(文永の役)の6年も前から5回にわたって使節を派遣し、日本との外交交渉を求めていたのです。
この使節の一人に趙良弼(1217-86)という人がいました。趙という姓ですが、漢族ではありません。女真族の朮要甲氏の出身です。狩猟・農耕民である女真族は、遊牧民であるモンゴル族とは異なり、早くから漢族の文化を受け入れていました。金の朝廷は、女真族が民族のアイデンティーを失わないようにと、漢族の姓を名乗ったり、服装を真似たりすることを禁じていましたが効果はなかったようです1。良弼の一族も、女真語のわからない人が「朮要甲」を誤って「趙家」と呼んだことから、この姓を名乗るようになったといいます2。
良弼は幼いころ、モンゴルの侵攻を受け、父や兄、甥、従兄弟の4人を相継いで失いました3。17歳のとき、金の都汴京がモンゴルに包囲されると、母を連れて脱出し、故郷の趙州(現河北省石家庄市一帯)に帰りました。金の滅亡後は、名儒に従って学問を治め、モンゴルが実施した選抜試験に合格して、モンゴル帝国の中で官僚としての道を歩むことになりました4。その一方で、幼いころの体験から、戦禍から人々を守らなければならないという強い使命感も持っていたようです5。
1260年、クビライが即位し、国号を元と定めました。クビライは再三にわたり日本に使節を派遣しましたが、日本の朝廷や幕府は一向に交渉に応じようとしませんでした。業を煮やしたクビライは、1270年、良弼を経略使として、高麗に日本への遠征軍を駐屯させることを計画します。ところが良弼はこれを固辞し、逆に国信使として日本へ使いすることを願い出ます。日本の朝廷や幕府と直接交渉し、戦争を回避しようと考えたのです。良弼の身を案じたクビライは、兵三千を同行させようとしましたが、良弼はこれも辞退し、翌71年、わずか24名の書状官と高麗の通訳官ら約百人ほどで日本に向かいました。
当時、大宰府には、元と敵対する高麗の反乱軍や南宋の使節が援軍を求めて集まっていました。案の定、交渉は失敗し、良弼は国書の写しだけを渡すと、12人の日本人を連れて帰国しました。元の威容を見せることで、日本側の翻意を促そうとしたのでしょう。
73年、良弼は再び日本を訪ねました。このとき良弼は日本の僧南浦紹明(1235-1309)と詩を交わしています。当時大宰府崇福寺の住持であった南浦紹明は、日本側の外交顧問として、良弼らの対応に当たっていました。彼は詩の中で良弼についてこう詠っています。
外国高人来日本 相逢談笑露真機
殊方異域無差路 目撃道存更有誰
外国の高官が日本を訪れ 出逢いと談笑の中で真意を語った
国は異なれど人の道に違いはない これほど道ある人がほかにいるだろうか
しかし、この二度目の交渉も失敗に終わりました。それでも良弼は諦めることなく、帰国後、クビライに意見を求められると、日本への侵攻がいかに無意味かを説き、無益な戦争をやめるよう訴えました。
こうした努力もむなしく、74年、ついに元の日本侵攻が始まりました。二度にわたる本土侵攻は食い止められたものの、侵攻の中継地となった対馬や壱岐は壊滅的な被害を受けることになりました。
日本の元外交官の孫崎享氏によれば、国家間の対立を回避する上で重要なのは「対象国のハト派と連携すること」だといいます。もし当時の朝廷や幕府が良弼のようなハト派と連携を図っていたら、あるいはこうした被害もなくすことができたのかもしれません。
▼元の第一次侵攻(文永の役)の際に自決した壱岐国守護代平景隆一門
(矢田一嘯画「元寇図」福岡県うきは市本仏寺蔵)
注
- 金朝は女真族が民族的アイデンティティーを失い、弱体化することを警戒して、再三にわたり以下のような禁令を発している。
「女真人不得改爲漢姓,及學南人裝束。違者杖八十,編為永制。」(『金史』巻四十三、輿服志下) - 「公女直人、避遼章帝宗真諱易真為直、以部族朮要甲姓、佐金祖平遼、宋功,世長千夫,戍真定贊皇。人不能金言者訛為趙家,其曾大父鎮國上將軍諱祚者,喜曰:「天將華姓吾家耶!」因趙姓。」(『元朝名臣事略』巻十一所引「牧庵姚公撰廟碑」)
- 朮要甲氏略系図(赤字は対モンゴル戦での戦死者)
┌良貴(嵩汝招討使)─讜(許州兵官)
祚(鎮国大将軍)─?┬愨(威勝軍節度使)┤
│ └良弼
│
└?─────────良材 - 公輦母夫人北渡河至鄉,奉事之外,日從名儒講論文藝,尤致意司馬氏通鑒,歷代典章制度,兵馬強弱,地理厄塞,有關國家興衰治亂者,無不記憶。戊戌,朝命試諸道進士,公中優選,教授趙州。(『元朝名臣事略』巻十一所引「野齋李公撰墓碑」)
- 己未(1259年)七月,世祖南征,召參議元帥事,兼江淮安撫使。親執桴鼓,率先士卒,五戰皆捷;禁焚廬舍、殺降民,所至宣布恩德,民皆按堵。(『元史』巻百五十九趙良弼伝)
華暦 | 朝鮮暦 | 和暦 | 出来事 | |
1214 | 金貞祐2 | 5月、金が中都大興府(燕京)から汴京に遷都 | ||
1215 | 3 | 8月、金の中都大興府がモンゴルの攻撃を受け陥落 | ||
1217 | 趙良弼、賛皇(現河北省石家庄市賛皇県)に生まれる | |||
1218 | 9月ごろまでに良弼の従兄良材没 | |||
1219 | 良弼の父愨が沃州高邑県でのモンゴルとの戦いで没 | |||
1232 | 金天興元 | 正月前後(?)、良弼の兄良貴、甥讜が戦死 3月、モンゴルが汴京を包囲(第一次) 5月、汴京で疫病が蔓延 12月、金の哀宗が汴京を捨て帰徳に奔る |
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1233 | 2 | 正月、崔立が汴京で叛乱を起こす このころ良弼は母を連れて汴京を脱出し、賛皇県へ帰る 4月、崔立が金朝の皇族500名余りを捕らえてモンゴル軍に献上し、汴京陥落 |
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1234 | 3 | 1月、金の末帝昭宗が蔡州城(現河南省汝南県)でモンゴルに捕らえられ殺害される(金の滅亡) | ||
1235 | 嘉禎元 | 南浦紹明(大応国師)が駿河国に生まれる | ||
1238 | 趙良弼が戊戌選試に合格 | |||
1249 | 建長元 | 南浦紹明が鎌倉建長寺の蘭渓道隆に参禅 | ||
1251 | 憲宗元 | 趙良弼がクビライにより邢州安撫司の幕長に抜擢される | ||
1259 | 正元元 | 南浦紹明が宋に渡り、虚堂智愚の法を継ぐ 7月、クビライが南征を行い、趙良弼が參議元帥事兼江淮安撫使としてこれに参加 |
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1260 | 中統元 | 5月、クビライが即位し、国号を元と定める | ||
1266 | 至元3 | 元宗 | 文永3 | 8月、元が日本に国信使(国信使:兵部侍郎赫徳、国信副使:礼部侍郎殷宏)を派遣するが、至らず帰還 |
1267 | 4 | 4 | 9月、元が起居舎人潘阜を日本に派遣 南浦紹明が宋から帰国し、鎌倉建長寺に戻る |
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1268 | 5 | 5 | 4月、北条時宗が鎌倉幕府執権となる 9月、元が赫徳、殷宏を再度日本に派遣するが、拒まれ、塔二郎、弥二郎の二人を捕えて帰還 |
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1269 | 6 | 10 | 6 | 6月、高麗の金有成に命じて塔二郎、弥二郎を送還 同月、高麗の武臣林衍・林惟茂父子らが元宗の廃位を図るが、モンゴルの圧力によって失敗(武臣政権の終り) |
1270 | 7 | 7 | 6月、将軍裴仲孫、夜別抄指諭盧永僖が蜂起(三別抄の反乱) 8月、三別抄軍が珍島に拠る 11月、三別抄軍が済州島を陥す 同月、安撫使阿海に代え、忻都・史枢らを経略使として高麗に派遣、鳳州で屯田を行わせる 12月、元が陝西等路宣撫使趙良弼に秘書監を授け、国信使として日本に派遣。帰還まで浩爾斉(忽林矢)、王国昌、洪察球爾(洪茶丘)に兵を率いて金洲などに駐屯するよう命じる 同月、趙良弼が燕京を出発 秋、南浦紹明が筑前国興徳寺の住持となる |
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1271 | 8 | 12 | 8 | 1月、趙良弼が軍官の忽林赤(モンゴル人)・王国昌(漢人)・洪茶丘(高麗人)ら40人とともに高麗の国都開京に到着 3月、忻都らが開京に到着するが、裴仲孫らの招撫に失敗 5月、忻都・忽林赤・王国昌・洪茶丘が珍島を陥落、三別抄軍は済州島に逃れる 同月、趙良弼が高麗の科挙の合格発表を参観 8月、忽林赤(?)が合浦県に駐屯 9月、三別抄から、軍事的援助を乞う使者が到来 同月、趙良弼が弥四郎とともに大宰府西守御所に至り、国書の副本と書状を提出。良弼、書状官張鐸を弥四郎ら日本の使い26人とともに大都に送る 10月、義安郡に駐屯していた王国昌没 同月、日本の朝廷で評議が行われる |
1272 | 9 | 13 | 9 | 正月、趙良弼が日本の使佐12人とともに高麗の国都に帰還。書状官張鐸に命じて日本の使佐を元都へ送る 2月(4月?)、高麗の元宗が日本に元との通好を勧める国書を送る 4月、日本の使佐が高麗の国都に戻る 5月、張鐸が再び来朝し、高麗からの牒状を伝える 12月、南浦紹明が大宰府の崇福寺に移り、少弐氏の外交顧問となる |
1273 | 10 | 10 | 3月、趙良弼が高麗の国都に到着 6月、趙良弼が日本に使いし、大宰府に行き、帰還 |
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1274 | 11 | 11 | 5月、趙良弼がフビライの下問に答え、日本遠征の不可を論じる 6月、高麗の元宗が没し、世子昛が即位(忠烈王) 9月、高麗の忠烈王がクビライの皇女忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)と結婚 10月、元が日本に侵攻(文永の役) |
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1275 | 12 | 建治元 | 2月、日本に派遣した礼部侍郎杜世忠・兵部侍郎何文著・計議官撒都魯丁らが鎌倉で処刑される | |
1277 | 14 | 3 | 日本が派遣した商人が金を銅銭に換えることを許す | |
1279 | 16 | 弘安2 | 6月、北条時宗の招請により無学祖元が博多に到着、8月、建長寺の住持に 周福・欒忠らが博多で処刑される |
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1281 | 4 | 元が日本に再び侵攻(弘安の役) |
参考資料
- 山本光朗「趙良弼について(一)」(『北海史論』第20号 2000年)
- 山本光朗「元使趙良弼について」(『史流』第40号 2001年4月)
- 山本光朗「趙良弼と元初の時代」(『アジア史学論集』第4号 2011年)
- 山本光朗「趙良弼撰『黙庵記』について」(『史流』第41号 2004年)
- 高橋典幸「モンゴル襲来をめぐる外交交渉」(高橋典幸編『戦争と平和』竹林舎 2014年所収)
- 植松正「モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使」(京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編第20号 2021年3月)→京女AIR
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