【コラム】陳和卿とと河内の鋳物師たち

日中交流の史跡と文化
鎌倉大仏(高徳院)

水島彩花

 平安時代の末の1180年、平家の南都焼打により、奈良の町は焼け野原となり、奈良の大仏も頭や手が焼け落ちてしまいました。翌1181年、藤原行隆を勅使として破損状況の検分が行われましたが、同行した10余人の鋳師たちは「人力の及ぶところにあらず」といってさじを投げてしまいました。
 このため大仏の修復事業は、入宋経験のあった浄土宗の僧重源ちょうげんに任されることになりました。重源は、宋から来た7人の職人に修復を依頼します。その「惣大工そうだいく」(チーフ・エンジニア)となったのが陳和卿ちんなけいです。
 当初、スタッフは宋人だけでしたが、途中から河内の鋳物師14人が加わることになりました。宋人の中には「不快之色」を示す者もいたといいますが、重源の説得により作業も順調に進み、1185年、大仏開眼供養が盛大に行われました。
 ちなみに奈良の大仏は、戦国時代の1567年にも戦火で頭が焼け落ちており、現在の大仏の頭は1692年に修復されたものです。「仏の顔も三度まで」といいますから、三度目がないことを祈るばかりです。
 陳和卿らが奈良の大仏を修復してから50年後、鎌倉でも大仏の造営が始まりました。当初は木像でしたが、浄光という僧が幕府に勧進を願い出て、一人一もんずつ宋銭を寄進することになりました。面白いことに、寄進された宋銭は経費として使われたのではなく、原料として鋳潰いつぶされたことが、近年の研究で明らかになっています1
 この鎌倉大仏の鋳造を行ったのが、河内の鋳物師たちでした。奈良の大仏の修復で、陳和卿らから宋の高度な鋳造技術を学んだ河内の鋳物師たちは、全国各地に出向いて釣り鐘などの鋳造を始めました。1252年に始まった鎌倉大仏の鋳造は、1262年ごろ完成しました。
 日中の技術者たちの協力で、今日にまで伝わることになった二つの大仏。奈良と鎌倉を訪ねて、その違いを見比べてみるのも楽しいのではないでしょうか。

注釈

  1. 「鎌倉の大仏様『素材は中国銭』別府大グループが解明」(朝日新聞、2008年6月21日朝刊)

奈良大仏(東大寺)
〒630-8587 奈良市雑司町406-1
☎0742-22-5511

鎌倉大仏(高徳院)
〒248-0016
神奈川県鎌倉市長谷4丁目2番28号
☎0467-22-0703

参考文献

  1. 岡崎譲治「宋人大工陳和卿伝」(『美術史』第30号、美術史学会、1958年)
  2. 植田隆司「河内鋳物師の活動と重源」(大阪府立狭山池博物館研究報告7、2011年3月) 
  3. 新井宏「金属を通して歴史を観る 16.鎌倉の大仏と宋銭」(BOUNDARY 16(4) 2000年4月)
  4. 馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』(新人物往来社 1998年)
  5. 小田富士雄・平尾良光・飯沼賢司共編『経筒が語る中世の世界』(思文閣出版、2008年)

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