1.アイスブレイク
13:10~13:30 アイスブレイク
ゼミの仲間と互いによく知り合えるよう、あらためて自己紹介などをしましょう。
2.輪読発表とグループワーク
13:30〜14:00 輪読発表
【輪読図書】
【参考資料】
- 鄭麟趾等奉命撰『龍飛御天歌』巻七(1447年刊、李朝の建国叙事詩)
有一賊將年纔十五六,骨貌端麗,驍勇無比,乘白馬舞槊馳突,所向披靡,莫敢當。我軍稱阿其拔都(아기바톨)爭避之(舞,變弄也。阿其,方言小兒之稱也。拔都或作拔突,蒙古語,勇敢無敵之名也)。太祖惜其勇銳,命豆蘭生擒之。豆蘭曰:「不殺必傷人」阿其拔都著甲胄護項面,甲無隙可射(著,陟略切。冑,直又切。兜,鍪也)。太祖曰:「我射兜鍪頂子令脫,汝便射(令,平聲)」遂躍馬射之,正中頂子,兜鍪絕纓而側(纓,伊盈切,冠系也。側,傾也)。其人急整之。太祖又射,又中頂子,兜鍪遂落,豆蘭射殺之。於是賊挫氣。(→京都大学貴重資料デジタルアーカイブ) - 『世宗実録』巻120、世宗30年(1448)6月12日
丙寅 召禮曹判書許詡曰: “今來日本國王使臣, 予旣不出見, 除肅拜於予, 只令行禮於東宮如何? 若爾則東宮接見之時, 使臣拜於階上乎? 階下乎? 東宮起而受禮乎? 坐而受禮乎? 我國雖蔑視日本, 然稱爲敵國, 其接待之禮, 不可不議。前者卞孝文使日本見國王之時, 令拜於階上, 及館待之時, 館伴坐北壁, 令孝文坐西壁, 孝文不坐曰: ‘吾坐東壁, 館伴坐西壁, 禮也。’ 館伴坐東終不西, 孝文意以爲初欲坐北壁, 今已下坐東壁, 不可强之, 遂坐西壁。又昔我使至日本, 路見一大臣乘轎子而來, 下馬, 彼人不下轎子而與之語, 彼亦有輕我之心矣。今來使臣接待之禮, 何以處之而可乎?”
詡對曰: “臣以爲遙拜大殿, 次拜東宮。 且其接待之禮, 本我國臣民, 旣已稱臣於東宮, 倭人亦稱爲少王。 東宮當坐於繼照堂上, 令倭使立於西班三品班頭, 拜庭下, 引見臺上, 竝皆坐而受之, 何所不可?” 上曰: “卿言當矣。 然大事也, 亦當議于政府。”(→国史編纂委員会朝鮮王朝実録データベース) - 『世祖実録』巻8、世祖3年(1457)7月29日
諭咸吉道都節制使郭連城曰: “野人、倭人, 俱爲我藩籬, 俱爲我臣民, 王者等視無異, 或用爲力, 或用爲聲, 不可以小弊拒却來附之心。予卽位以後, 南蠻北狄來附者甚衆, 皆願爲我子, 此天所誘也, 非予智力。但來往驛路有弊, 國家支待難繼, 以時宜授卿方略如左。
一, 若浪孛兒罕、速魯帖木兒、李貴也等諸酋請朝, 則答曰, ‘有旨, 「近日來朝不久, 今年勿送。」’ 如捕捉松鶻, 別例親啓事上送。
一, 黑龍江 速平江 (兀狄合) ㆍ火剌溫、建州衛 (兀浪哈) 李滿住ㆍ童倉等深處野人及三衛㺚子扣關請朝, 則約其從人, 厚待上送。
一, 如野人, 無所加禮, 其餘從人, 館待優厚。”(→国史編纂委員会朝鮮王朝実録データベース) - 吉野誠『東アジア史の中の日本と朝鮮』(明石書店 2004年)
戦国大名は、つねに新しい戦争にむけ軍事動員の体制を組むことによって家臣を統制してきました。そして、戦争によって新しく獲得した領土を家臣に分け与え、部下たちもまた、そうした恩賞をめざして主君への忠勤に励んだのです。‥‥戦国大名から脱皮できないかぎり、次には朝鮮へ、さらには中国へと、領土獲得の戦争を続けていく以外にはなかったでしょう。朝鮮侵略とは、こうした戦国大名の論理から導きだされたものだったと考えられます。(pp.158-159) - 吉野誠『東アジア史の中の日本と朝鮮』(明石書店 2004年)
秀吉の構想は、中国皇帝を中心とした中華世界秩序への挑戦を意味するものでしたが、これにとってかわるのは天皇を中心とした体制であったというべきだと思われます。これが、神国思想で基礎づけられました。‥‥「神道ヲ知レバ、則チ仏法を知リ、又儒道ヲ知ル」というように、そこでは神道が優位に位置づけられています。こうした神国思想のもと、武将たちは、神功皇后の三韓征伐に重ねあわせて、自らの行為の意義づけをおこなったのでした。(p.160) - 第1回「諸外国における対日メディア世論調査」(一般社団法人中央調査社 2015年)
14:00~14:30 グループワーク
課題図書から研究の方法を学びましょう。
- 先行研究の紹介と批判的思考(Critical Thinking)‥倭寇の構成員について pp.144-146
- 原典主義(引用は必ず出典に当たる)‥官僚の言葉 p.151
14:30~14:40 休憩
3.新聞発表とグループワーク
14:40~15:00 新聞発表
【参考資料】
- 「強制連行された朝鮮人」(『新潟県史』通史篇8近代3 1988年)(pp.772-786 →国立国会図書館デジタルコレクション)
- 「朝鮮人労働者の動員」(『佐渡相川の歴史 通史編 近・現代』相川町史編纂委員会編 1995年)
「昭和14年に始まった労務動員計画は、名称こそ募集、官斡旋、徴用と変化するものの、朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質であった。」(『新潟県史』近代篇10)と指摘されるように、ひとり佐渡鉱山に限らず、県内の金属鉱業、信濃川発電工事、青海電気化学工業などにも朝鮮人就労がみられた。17年1月には県内への連行者は1708人を数えたとされ、もっとも多かったのが佐渡鉱山の802人(小沢有作編『近代民衆の記録』10、在日朝鮮人)である。(pp.679-684 →国立国会図書館デジタルコレクション)
15:00~15:20 グループワーク
4.補足説明とグループワーク
15:20〜15:45 補足説明
15:45~16:00 グループワーク
映像作品を作るとすれば、どんな作品を制作するか。話し合ってみましょう。
【関連年表】
西暦 | 中国 | 朝鮮 | 日本 | 出来事 |
1350 | 元 | 高麗 | 室町時代 | 高麗に倭寇来襲 |
1366 | 高麗が日本に倭寇の鎮圧をもとめる使節を派遣 | |||
1368 | 明 | 朱元璋が明を建国 | ||
1380 | 李成桂が南原の戦いで阿只抜都率いる倭寇を討伐 | |||
1389 | 高麗が対馬に侵攻し、倭寇の被虜人100余人を連れ帰る | |||
1392 | 李氏朝鮮 | 李成桂が朝鮮を建国 | ||
1393 | 李成桂が明から権知高麗国事に冊封される | |||
1403 | 李芳遠が明から朝鮮国王に冊封される 足利義満が明に使節を派遣 |
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1404 | 明の永楽帝が足利義満に「日本国王之印」と勘合符を送る 足利義満、朝鮮に国書を送り、日朝間の国交が600年ぶりに回復 |
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1419 | 朝鮮が対馬に侵攻し、倭寇の中国人被虜人131名を連れ帰る(応永の外寇) | |||
1420 | 朝鮮の宋希璟(1376-1446)が足利義持の遣使に対する回礼使として来日し、『老松堂日本行録』を著す | |||
1429 | 朝鮮が日本に第1回通信使を派遣 | |||
1439 | 朝鮮が日本に第2回通信使を派遣 | |||
1443 | 朝鮮と対馬国の宗貞盛とが、貿易に関する協定を締結(癸亥約条) 朝鮮が日本に第3回通信使を派遣、書状官として申叔舟が渡日 |
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1471 | 申叔舟が成宗の命を受け、通信使として渡日した際の見聞をまとめた『海東諸国紀』を出版 | |||
1510 | 朝鮮の薺浦(熊川)・富山浦(釜山)の恒居倭人が対馬島主宗盛順の代官宗盛親の指揮する対馬からの援軍をえて蜂起(三浦の乱) | |||
1512 | 朝鮮と対馬島主宗盛順が三浦の乱で断絶した関係回復のため、日本国王使弸中や大内氏の働きかけをえて、対馬からの歳遣船を25艘、薺浦一港のみという条件で復活(壬申約条)、 | |||
1557 | 安土桃山時代 | 朝鮮が対馬からの歳遣船を30艘、釜山一港に制限(丁巳約条) | ||
1592 | 4月、小西行長・宗義智率いる軍が釜山に上陸(文禄の役・壬辰倭乱) | |||
1597 | 7月、日本が朝鮮に約14万を再派兵(慶長の役・丁酉倭乱) | |||
1598 | 8月、秀吉没 11月、日本軍が釜山から撤退 |
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1603 | 江戸時代 | 徳川家康が江戸に幕府を開く | ||
1606 | 対馬藩が朝鮮に家康の国書を持った使節を派遣し、朝鮮王室の陵墓を荒らした犯人2名を引き渡す | |||
1607 | 朝鮮が日本に第1回回答兼刷還使総勢500名を送り、江戸城で第二代将軍徳川秀忠と会見(朝鮮との国交回復) |
【参考文献】
- 田中健夫「倭寇と東アジア通行圏」(『日本の社会史 ー列島内外の交通と国家』岩波書店 1987年)
- 高橋公明 「中世アジア海域における海民と交流一
済州島を中心として」(『名古屋大学文学部研究論集』史学 33、1987年) - 村井章介『中世倭人伝』(岩波新書 1987年)
- 浜中昇「高麗末期倭寇集団の民族構成」(『歴史学研究』第685号、1996年)
- 李領『倭寇と日麗関係史』(東京大学出版会、1999年)
- 秀城哲「16世紀「倭寇」を構成する人間集団に関する考察 : 「倭」と「日本人」の問題を中心に」(千葉大学社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書 第35号、2003年3月)
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