2014-05-17(金)第05回

2024年度授業計画
羽川藤永画「朝鮮通信使来朝図」(1748年頃-神戸市立博物館蔵)

1.共同研究・アイスブレイク

 13:10~13:30 アイスブレイク
 学⽣による合同演習(ゼミ)説明会の実施について相談しましょう。
 (1) 日時:7 ⽉ 10 ⽇(⽔)〜 12 ⽇(⾦)の昼休み
 (2) 対象:1-2年⽣
 (3) 場所:富⼠⾒坂ホール(富⼠⾒坂地下1階)
 (4) 形式:3 ⽉に実施した説明会と同様

2.輪読発表とグループワーク

 13:30~13:50 輪読発表

 13:50〜14:20 グループワーク
 14:20~14:30 休憩

3.新聞発表とグループワーク

 14:30~14:40 新聞発表

 14:40~15:00 グループワーク

 15:00~15:10 グループワーク

4.補足説明とグループワーク

 15:10~15:30 補足説明
 江戸時代の第一回から第三回までの朝鮮使節は、回答兼刷還使と呼ばれ、秀吉の朝鮮出兵による警戒感から、国書への回答やによる捕虜の送還などを主な役割としていました。ところが、1636年の第四回使節からは旧来の通信使(信義を通わす使節)という名称が使われるようになり、以後、将軍家の襲封の際には祝賀の使節が派遣されるようになりました。
 その背景には、朝鮮を襲った大きな戦乱がありました。中国東北部で勢力を拡大した満州族が、1636年、朝鮮に大規模は侵攻を行ったのです。この戦いに敗れた朝鮮の第16代国王仁祖は、漢城(現ソウル)近郊の三田渡で、満州族が建国した清の臣下となる盟約を結びます。
 この盟約は、260年後、清が日清戦争に敗れ、下関条約で「朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認」するまで、朝鮮の内政・外交を拘束するくびきとなっていました。このため、韓国ではいまもこれを「三田渡の屈辱(삼전도의 굴욕)」と呼んでいます。
 韓国映画『天命の城』の中の「三田渡の屈辱」の場面を見て、以下の2つの問題について考えてみましょう。
①「三田渡の屈辱」は、秀吉の朝鮮出兵で険悪化していた日朝関係に、どのような影響を及ぼしたのか?
②日本は、下関条約の第一条で、なぜ朝鮮の「独立自主」を掲げたのか?

 15:30~15:50 グループワーク

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