2025-01-10(金)第28回

2024年度授業計画
東京国立博物館

冬のフィールドワーク

目的
 東京国立博物館には、日中韓の交流の歴史を伝える貴重な文物が数多く所蔵されている。一年の学習の振り返りとして、現在展示されているものの中からいくつかを選んで見学したい。

行程
13:10 大学出発
13:20 飯田橋駅発(JR総武線・1番線)
13:27 秋葉原駅着
13:31 秋葉原駅発(JR京浜東北線快速・1番線)
13:34 上野駅着
13:40 上野駅発
    (徒歩)
13:50 東京国立博物館着

交通費・入館料
JR総武線・京浜東北線(市ヶ谷~上野)
 167円
東京国立博物館
 1,000円(ただし、学生証の提示で無料チケットがもらえます)
─────────────────────────
計167円(IC優先)

▼東京国立博物館マップ

見学する文物
⑴〔重要文化財〕菩薩半跏像(法隆寺宝物館)
 飛鳥時代、高屋大夫が朝鮮半島出身の亡き妻のために造った小型の仏像。台座に刻まれた銘文から、造仏の背景が明らかになっている。(→p.3 日韓交流の史跡と文化「【コラム】菩薩半跏像と古代の国際結婚」

⑵〔国宝〕銀象嵌銘鉄刀(平成館)
 平成館では、今年1月2日(木)~7月6日(日)まで「銘文大刀と古墳時代の社会」というテーマ展示が行われています。ここに展示されている〔国宝〕銀象嵌銘鉄刀は、熊本県の江田船山古墳から出土したもので、75字の銘文と鳥・魚・馬形の文様が刻まれていました。
 銘文には、ワカタケル大王(雄略天皇)の名や、この文を書いた張安の名があり、5世紀ごろの中国系渡来人の活動を知ることができる貴重な資料です。(→p.4 日中交流の史跡と文化「第4回 漢字がやってきた」

⑶画像石(東洋館4階7室)
 後漢時代(1~2世紀)、山東省や河南省南部などでは墓地のほこらや墓室の石壁に、神話や歴史を描いたレリーフ(浮彫図像)を刻んでいました。これを画像石といいます。(〔クイズ〕版画と拓本の違いは?)

参考資料

  1. 『東京国立博物館ガイドブック』

〔参考〕日韓交流の史跡と文化【コラム】菩薩半跏像と古代の国際結婚

 1993年、法隆寺は日本で初めて世界文化遺産に登録されました。しかし、この古刹も、明治維新の際に全国の寺院を襲った「廃仏毀釈」によって、大きな打撃を受けました。1872(明治4)年には、寺領を没収する上知令が出され、さらに1875(明治7)年には政府からの寺禄も廃止され、深刻な財政難に陥ってしまいました。そこで法隆寺は、1879(明治11)年、寺に伝わる宝物を皇室に献上することにしました。皇室からは一万円が下賜され、荒廃した堂塔の修復に当てられました。このとき献上された宝物を現在保管・展示しているのが、東京国立博物館の法隆寺宝物館です。
 この宝物の中に「菩薩半跏像」と呼ばれる金銅製の仏像があります。像高38.8センチの小さな仏像ですが、台座に刻まれた銘文から、その造仏の背景を窺うことができます。

 歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫爲分韓婦夫人名阿麻古願南无頂礼作奏也
(歳次丙寅年正月生十八日に記す、高屋大夫、分かれにし韓婦夫人、名阿麻古が為に願ひ南无頂礼して作り奏す也)

 銘文によれば、高屋大夫という人物が、亡くなった夫人の菩提を弔うために造った仏像だといいます。丙寅の年については、推古天皇14年(606)と天智天皇5年(666)の2つの説がありますが、飛鳥時代であることは確かなようです。
 この仏像が造られたころ、東アジアは大統一の時代を迎えていました。589年、隋が270年ぶりに中国全土を統一すると、その後を承けた唐は、東アジアの秩序を回復するため、新羅に加勢して百済と高句麗をつぎつぎと滅ぼしていきました。
 戦乱の中、高句麗や百済からは多くの人々が倭に渡っていました。高屋大夫の夫人も「韓婦」と書かれているところをみると、朝鮮半島の出身者あるいはその子孫であったようです。高屋大夫は、国際結婚したこの女性をとても愛していたのでしょう、銘文の中に「韓婦夫人、名阿麻古(朝鮮半島から来た妻、名は阿麻古)」と刻んでいます。

台座左側面 菩薩半跏像 台座正面

〔参考〕日中交流の史跡と文化 第4回 漢字がやってきた

 埼玉県行田市の稲荷山いなりやま古墳から、1968年、1本の鉄剣が出土しました。その後の調査で剣の両面に115字の銘文があることがわかり、これが「獲加多支鹵ワカタケル大王」に仕えた人物のものであることが分かりました。ワカタケル大王とは雄略天皇、倭の五王の1人である倭王武とする説が有力です。
 『宋書』倭国伝には、倭王武が478年に宋の順帝に送った上表文が引かれていますが、倭が内外に勢力を拡大する様子が見事な漢文で描かれています。では、この漢文、いったい誰が書いたのでしょうか?
 邪馬台国と魏・晋の交流の後、日中の交流は「空白の4世紀」を迎えます。中国では311年、匈奴が晋の都洛陽を襲い、皇帝を拉致し処刑してしまいます。中原を追われた漢民族の支配層は、長江の南にある建康(現在の南京)に都を移し、以後270余年にわたり江南に逼塞することになります。
 中国が朝鮮半島支配の拠点とした楽浪郡は高句麗に併合され、帯方郡も土着の韓族・わい族に滅ぼされてしまいます。その結果、倭と中国をつなぐ交流のルートが断たれてしまったのです。
 その後、朝鮮半島から漢の皇裔と称する人びとが日本列島に渡って来ました。漢氏あやうじと呼ばれる渡来人です。日本古代史の研究で知られる上田正昭氏は、これは中華にこじつけた言い伝えで、朝鮮半島南部から渡来した氏族だといいます。
 しかし、彼らの中から東文氏やまとのふみうじ西文氏かわちのふみうじといった漢字を扱う専門集団が誕生したところをみると、関西大学の西本昌弘氏が説くように、楽浪郡や帯方郡の滅亡後、百済などを経て渡来した中国系の遺民と考えるのが自然でしょう。
 銘文のある刀剣は、熊本県玉名郡の江田船山えたふなやま古墳からも出土しています。鉄刀の峰に75字の銘文があるのですが、王の名は一部が欠けていて読めませんでした。しかし稲荷山古墳の鉄剣の発見により、この王の名も「獲■■■鹵ワカタケル大王」であることが分かりました。
面白いことに、この鉄刀には銘文の筆者の名も刻まれていました。「書者は張安なり」。恐らく朝鮮半島から渡来した中国系遺民の1人だったのでしょう。
 この張安のような人びとが、当時の国際語であった漢文を使い、倭の国づくりを支えていたのです。

▼稲荷山古墳出土鉄剣銘文
(埼玉県)
▼江田船山古墳出鉄刀銘文
(熊本県)

参考資料

  1. 東京国立博物館キャンパスメンバーズ
  2. 『東京国立博物館ガイドブック』
  3. 【重要文化財】菩薩半跏像(東京国立博物館蔵→e國寶

 

コメント