2024-07-19(金)第14回 夏のフィールドワーク

2024年度授業計画
高麗神社の将軍標(장군표)

2024年度 夏のフィールドワーク
高句麗遺民の足跡を訪ねて

目的

 663年、朝鮮半島の三国の一つであった百済が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされます。日本(倭)は百済の復興を支援するため朝鮮半島に出兵しますが、白村江の戦いで大敗を喫してしまいました。
 666年、朝鮮半島の三国の一つで、唐・新羅と対立を続けていた高句麗は、日本(倭)に使節を派遣します。その使節の中に高句麗の王族の一人である若光という人物がいました。
 668年、高句麗が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされると、多くの遺民が日本(倭)に亡命しました。
 716年、日本は関東周辺に散居していた高句麗の遺民1799人を武蔵野の国に集め、高麗郡を置きました(『続日本紀』巻7)。この遺民たちの指導者となったのが、かつて使節として日本に訪れた若光でした。若光は高句麗が滅んだ後、日本(倭)に亡命し、703年、朝廷から高麗王若光こまのこきしじゃっこうというこきしかばね1を与えられていたのです。
 高句麗王家の血統を伝える若光が亡くなると、遺民たちは霊廟を建てて、彼を祀りました。これが今回見学する高麗こま神社です。
 高麗神社の近くには、若光の三子の聖雲がその師である高麗僧勝楽の冥福を祈るために、勝楽が高句麗から将来した歓喜天(聖天)を安置して開基した高麗山聖天院しょうでんいん勝楽寺があります。
 高麗神社と高麗山聖天院勝楽寺を訪ね、古代日本と朝鮮半島との関わりについて考えてみましょう。

注釈

  1. 王の姓‥『周書』巻49百済伝によれば、「(百済の)民は王を鞬吉支こんきしと呼ぶ」とあり、こきしはこの古代朝鮮語に由来するかばね(家柄を表す称号)


行程

13:10 大学出発
13:38 市ヶ谷駅発(東京メトロ有楽町線・2番線)
13:56 小竹向原着
13:58 小竹向原発(東京メトロ副都心線急行・3番線)
14:24 川越駅着
14:37 川越駅発(JR川越線八王子行・4番線)
14:58 高麗川駅着
    (徒歩)
15:22 高麗神社着

  • 高麗神社(→境内マップ
    〒350-1243 埼玉県日高市新堀833
    TEL/042-989-1403
    高麗家住宅‥若光の末裔である高麗氏の旧屋敷。慶長年間(1596~1614年)頃の建立とされ、1971年に国指定重要文化財に指定された。 
    鍍銀鳩榊文長覆輪太刀とぎんはとさかきほりもんながふくりんたち‥国選定重要美術品
  • 高麗山聖天院勝楽寺(→境内マップ
    〒350-1243 埼玉県日高市新堀990-1
    TEL042-989-3425
    高麗王廟と聖天院層塔(伝・高麗王若光の墓)‥日高市指定文化財
    高句麗若光王陵碑(碑銘は韓国元首相金鍾泌氏揮毫)
    在日韓民族慰霊塔‥日本統治時代に亡くなった在日コリアンの無縁仏慰霊塔。秩父長瀞で農園業を営む在日一世尹炳道氏が私財を投じ、2000年に竣工。周囲には、朝鮮様式の八角亭や檀君(名は王倹。平壌に都して治政1500年、1908歳の長寿を保ったという朝鮮全土の始祖神)・広開土大王(好太王とも、高句麗の第19代の王 (在位 391~412))・王仁わに博士(応神天皇の時代に百済から来た渡来人、朝廷の文筆に従事した西文首かわちのふみのおびとの祖とされる)などの石像がある。
    〔参考〕尹炳道氏が語った慰霊塔建立の趣旨
     「在日韓民族慰霊塔と慰霊碑は、民族統一を願い、日本国内における民団や朝鮮総連の垣根を超え、関東大震災、第2次大戦で犠牲となった同胞の御霊と、渡来人の御霊が安眠できるように供養したい、との願いを込めて発願しました。
     私が高麗の地に『白衣民族の聖地』をつくろうと思い立ったのは、李方子女史が聖天院を訪れた二十数年前に遡ります。李女史は私を前に『自分が死ねば高麗若光の隣に骨を埋めたい』と語った。李女史の願いは叶えられなかったが、それ以来『朝鮮人、韓国人の全てのお骨を拾ってあげよう』という気持ちに傾いていったのです。
     まず思い浮かんだのが、関東大震災で犠牲になった同胞の霊、東京・目黒の祐天寺に保管されたまま、引き取り手のない第2次大戦当時の同胞軍人・軍属の遺骨、いずれは、全国に散らばる引き取り手のないまま放置されている無縁仏を、安置したいのです。
     白衣民族の聖地にすれば、朝鮮人でも韓国人も区別なく、いろんな人が好きなときに来て線香を手向けられるとおもう。完成したら10月3日の開天節に合わせ法要をしていきたいとおもいます。6・25動乱(朝鮮戦争)の最中、何の罪もない同族が死んでいくのを目のあたりにしたので、『白衣民族の聖地』には南北の平和統一を願う気持ちもこめました」(河正雄著『日本と韓国二つの祖国に生きる』明石書店 2002年より)

17:30 高麗山聖天院勝楽寺発
    (徒歩)
18:00 高麗川駅着(解散)

参加費用
交通費
東京メトロ(市ヶ谷~川越)576円
JR川越線(川越~高麗川)242円
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           小計818円(IC優先)
参観料
高麗山聖天院勝楽寺     300円
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          総計1,118円
参考資料

  1. 高麗神社周辺地図(Google Map)
  2. 境内のご案内(高麗神社)
  3. 高麗澄雄編『高麗神社と高麗郷 増補版』(高麗神社社務所, 1979年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  4. 高麗浪漫学会編『早わかり高麗郡入門Q&A』(高麗郡建郡1300年事業日高市実行委員会 2013年)

関連年表
【輪読図書関連年表】

西暦 国・地域 出来事
中国
朝鮮
日本
581

百済 新羅 古墳時代 北周宣帝の外戚楊堅が政権を奪い、隋を建国
587 崇仏派の蘇我馬子らが廃仏派の物部守屋を討伐(丁未の乱
589   2月、隋が南朝陳を滅ぼし、中国全土を統一
592 飛鳥時代 推古天皇が即位し、明日香に都を置く
595 高句麗から慧慈が渡来し、聖徳太子の仏教・政治・外交のブレインとなる
596 蘇我氏が法興寺(現在の飛鳥寺)を建立(高句麗の建築様式の影響?)
598 隋の文帝が第一回高句麗遠征
600 第一回遣隋使派遣(『隋書』倭国伝)
倭が新羅に出兵
601 倭が高句麗・百済に使節を派遣して新羅攻撃を協議
607 第二回遣隋使派遣
608 隋が答礼使として裴世清を倭に派遣
裴世清を送るため、第三回遣隋使派遣。高向玄理、南淵請安、僧旻、倭漢福因、恵隠らを隋に留学させる
612 隋の煬帝が第二回高句麗遠征
613 隋の煬帝が第三回高句麗遠征
614 隋の煬帝が第四回高句麗遠征
618 李淵が隋を滅ぼして唐を建国
623   新羅から倭に仏像が送られ広隆寺に安置される(広隆寺の弥勒菩薩像か?)
630   倭が第一回遣唐使を派遣
632   第一回遣唐使犬上御田鍬を送って、高表仁が来日するが、礼を争って帰国
640   第二回遣隋使とともに渡海した高向玄理が、新羅を経て32年ぶりに帰国
642   高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こす
百済の義慈王が新羅に侵攻
新羅が金春秋(のちの武烈王)を高句麗に派遣
643   新羅が唐に使者を送り、救援を要請
645   2月、唐の太宗が第一回高句麗遠征
6月、倭で蘇我入鹿が誅殺され(乙巳の変)、高向玄理と僧旻を国博士に任ずる
646   倭が高向玄理を新羅に派遣
647   新羅が金春秋(のちの武烈王)を倭に派遣
唐が第二回高句麗遠征
648   唐が第三回高句麗遠征
新羅が金春秋(のちの武烈王)を唐に派遣
649   新羅が唐の衣冠礼服の制度を採用
650   新羅が独自の年号を廃し、唐の年号を採用
651   新羅の貢調使が唐風の官服で来朝、大宰府は非礼として追い返す
653   倭が第二回遣唐使を派遣
654   倭が第三回遣唐使を派遣
新羅の武烈王(金春秋)即位
高向玄理
659   倭が第四回遣唐使を派遣、使節は長安に抑留される
660   唐・新羅連合軍が百済を攻撃、義慈王が降伏し百済滅亡
661   新羅の武烈王(金春秋)没
倭が百済の遺臣鬼室福信らの要請により、人質となっていた余豊璋を五千の兵をつけて帰国させる
663   倭が百済復興を支援するため、上毛野稚子を将軍とする二万七千の軍勢を派兵(白村江の戦
664   倭が対馬・壱岐・筑紫に防人と烽火を置く
665   倭が第五回遣唐使を派遣
666   10月、「高麗遣臣乙相奄等が進調(大使臣乙相奄・副使達相遁・二位玄武若光等)」(『日本書紀』)
668   唐・新羅連合軍の攻撃により高句麗滅亡賦
669   倭が第六回遣唐使を派遣(こののち33年にわたり遣唐使の派遣を中断)
670   新羅が旧百済領に侵攻し、朝鮮半島で羈縻政策を進める唐と対立(羈縻政策とは、帰順した諸民族地域に羈縻州を置き、都督府の督察下での自治を認める間接統治策)
672   倭で天智天皇の後継をめぐって内戦が起こり(壬申の乱)、勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となり、皇后であとを継いだ持統天皇とともに唐の律令制度を導入
676 統一新羅 新羅が伎伐浦で唐軍を破り、旧百済領全域を支配し、唐の羈縻政策を排除
687 3月、「投化高麗人56人に常陸の国において田を賦し、稟を受け、生業を安んぜしむ」(『日本書紀』持統天皇元年)
698 高句麗の遺民と靺鞨人が渤海を建国
702 倭が国号を日本と改め、33年ぶりに第七回遣唐使を派遣
703   4月、「従五位下高麗若光こきし姓を賜ふ」(『続日本紀』巻3 文武天皇大宝3年)
710 奈良時代 3月、元明天皇が藤原京から平城京へ遷都(奈良時代の始まり)
716 5月、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国在住の高麗人1,799人を武蔵の国に遷して高麗郡を置く」(『続日本紀』巻7 元正天皇霊亀2年)
717 11月、「高麗・百済二国の士卒、本国の乱に遭ひて聖下に投ず。朝廷その絶域を憐み、復(課役の免除)を給ひて身を終へしむ」(『続日本紀』養老元年)
720 『日本書紀』が成立
753 遣唐大使の藤原清河が唐の朝廷での朝賀の際、新羅と席次を争う(争長事件
759 倭が新羅遠征を計画
779 天皇が「表を将たざるものの境に入ら使むべからず」という詔を出し、新羅の使節を追い返す(新羅との国交断絶
784 11月、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都
794 平安時代 10月、桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都(平安時代の始まり)
828 新羅商人張保皐(790-841)が大宰府に来航
838 最後の遣唐使として、藤原常嗣や円仁らが渡唐
847 円仁が新羅の商船に乗って帰朝

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