日韓交流の歴史と文化 【コラム】湯島聖堂と歴聖大儒像 上野公園にある清水観音堂から西郷隆盛銅像の一帯は、むかし忍岡(しのぶがおか)と呼ばれていました。寛永9年(1632)、忍岡の林羅山の別宅に、孔子を祀る先聖殿が建てられました。儒教の普及に熱心だった尾張藩主徳川義直が寄進したものです。翌年、羅... 2025.01.30 日韓交流の歴史と文化
日中交流の史跡と文化 第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか? 第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?~中国系渡来人と仏教 589年、隋が中国全土を統一し、長く続いた南北分裂の時代に終止符が打たれました。倭は隋との外交交渉のため4回にわたって遣隋使を派遣します。このうち第2回遣隋使(607年)の国書にあっ... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】隋の使節を迎えた宮殿―雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地) 【コラム】隋の使節を迎えた宮殿 雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地) 第二次遣隋使は隋との交渉を無事成功させました。「天子」という言葉に腹を立てた煬帝でしたが、遣隋使が帰国する際には、裴世清らを答礼使として倭に派遣したのです。当時隋は高句麗と対... 2025.01.14 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】遣隋使の謎 【コラム】遣隋使の謎 『日本書紀』などの日本側の記録によれば、遣隋使は女性天皇である推古天皇の時代に派遣されました。ところが、『隋書』倭国伝などの中国側の記録に見ると、開皇20年(600年)に派遣された第一回遣隋使の使者は、王の姓は「阿毎... 2025.05.12 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第6回 倭から日本へ 第6回 倭から日本へ~日本はいつから日本になったのか? 中国では、8世紀頃まで日本を「倭」と呼び、日本も対外的には「倭」を自称していました。では、この「倭」という名はどこから来たのでしょうか。 弘仁4年(813年)に行われた『日本書紀』... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】『日本書紀』の謎(作成中) 【コラム】『日本書紀』の謎 『日本書紀』は、奈良時代の初め、720年に完成しました。しかし、その編纂作業は、飛鳥時代の末、天武・持統両天皇の時代(673~697年)から始まっていたようです。では、なぜこの時代に『日本書紀』は編纂されたので... 2025.01.24 日中交流の史跡と文化
2025年度授業計画 2025年度授業計画 授業の概要と目的(何を学ぶか) 中国や台湾、韓国などアジアの人々の対日イメージと、日本人自身が抱く自己イメージとの間には大きな違いがあり、良好な近隣関係を築く上での障害となっている。 この授業では「アジアから見た日本」をテーマに、これら... 2025.01.11 2025年度授業計画授業計画
日韓交流の歴史と文化 【コラム】菩薩半跏像と古代の国際結婚 1993年、法隆寺は日本で初めて世界文化遺産に登録されました。しかし、この古刹も、明治維新の際に全国の寺院を襲った「廃仏毀釈」によって、大きな打撃を受けました。1872(明治4)年には、寺領を没収する上知令が出され、1875(明治7)年には... 2025.01.06 日韓交流の歴史と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】隋・唐からの訪日使節(作成中) 【コラム】隋・唐からの訪日使節(作成中) 日本は600年の第一回遣隋使から、838年の最後の遣唐使まで、20回以上にわたって使節を派遣しました。では、隋や唐からはどのような使節が日本を訪れたのでしょうか。 高句麗との戦いに手を焼いていた... 2025.07.07 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】天武・持統時代の遺跡 【コラム】天武・持統時代の遺跡 663年、倭は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。672年、敗戦の責任者であった天智天皇が没すると、皇室内でクーデターが起こり、天智天皇の弟の大海人皇子おおあまのみこが、甥の大友皇子を自殺に追い... 2025.01.22 日中交流の史跡と文化