上野公園にある清水観音堂から西郷隆盛銅像の一帯は、むかし忍岡と呼ばれていました。寛永9年(1632)、忍岡の林羅山の別宅に、孔子を祀る先聖殿が建てられました。儒教の普及に熱心だった尾張藩主徳川義直が寄進したものです。翌年、羅山はここで孔子ら儒教の先聖・先哲を祀る「釈菜」を行うため、絵師の狩野山雪に依頼して、「歴聖大儒像」と呼ばれる21幅の肖像画を作りました。
「釈菜」というのは、中国で古くから行われていた「釈奠」を簡略化した儀式です。日本では、飛鳥時代から朝廷の年中行事として行われていましたが、室町時代、応仁の乱で京都の町が荒廃すると、いつしか廃絶してしまいました。羅山の師である藤原惺窩は、朝鮮の儒者姜沆にその儀式を学び、京都で復興を試みたことがありました。羅山はこの儀式を江戸でも行い、儒教の権威を示そうとしたのです。寛永13年(1636)には、来日した朝鮮通信使の副使金世濂に、「釈菜」に掲げる歴聖大儒像への題賛を求めています。
こうした努力の甲斐あって、元禄3年(1690)、幕府は湯島に新たな孔子廟を建てました。いまも残る湯島聖堂です。忍岡先聖殿の孔子像もここに遷され、羅山の孫・林春常には大学頭の位が与えられ、以後林家がこの位を世襲することになりました。
湯島聖堂は、その後3度の大火に遭い、そのたびに再建されていましたが、林家の血統が途絶えると、寛政9年(1797 )、湯島聖堂にあった林家の家塾は廃され、幕府直轄の教育機関である昌平坂学問所(昌平黌)に改められました。
明治になると、昌平坂学問所もその役目を終え、湯島聖堂には一時文部省が置かれ、博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館の前身)や師範学校(現筑波大学の前身)が設けられました。
大正12年(1923)、関東大震災によって湯島聖堂は焼失しましたが、歴聖大儒像は博物館と師範学校が移転した際、両施設に分置されたため、難を逃れました。現在、三皇(伏羲・神農・黄帝)、聖帝(帝堯・帝舜・大禹・成湯・文王・武王・周公・孔子)、四配(顔子・曽子・子思・孟子)の15幅は東京国立博物館、六大儒(邵子・程伯子、周子、程叔子、張子、朱子)6幅は筑波大学図書館に所蔵されています。
現在の湯島聖堂は、昭和10年(1935)に再建されたものです。設計は建築史家の伊藤忠太博士、耐震耐火のため鉄筋コンクリートで造られています。
▼孔子と四配(顔子・曽子・子思・孟子)像
狩野山雪画・金世濂賛「歴聖大儒像」(東京国立博物館蔵)
▼近藤守重筆「釈奠図」(寛政元年(1789)徳川美術館蔵)
▼斎藤長秋編輯、長谷川雪旦画『江戸名所図会』巻5 聖堂
天保5~7年(1834~1836)
関連年表
西暦 | 和暦 | 出来事 |
1598 | 慶長3 | 秋、藤原惺窩、赤松広通邸に姜沆を訪ね、釈奠について尋ねる |
1632 | 寛永9 | 忍岡の林家別宅に、尾張藩主徳川義直が孔子を祀る先聖殿を寄進し、聖像(孔子像)と四賢(顔回・曽参・子思・孟子)の像を安置 林羅山、絵師の狩野山雪に依頼して、伏羲から孟子までの聖賢と周濂溪から朱子までの宋儒の肖像画21幅を作る(「歴聖大儒像」) |
1633 | 10 | 2月、先聖殿で釈菜(略式の釈奠)を実施 |
1636 | 13 | 林羅山、来日した朝鮮通信使の副使金世濂に「歴聖大儒像」の賛を依頼 |
1653 | 明暦3 | 1月、林羅山没 |
1691 | 元禄4 | 将軍徳川綱吉、湯島聖堂を造営し、忍岡の先聖殿の聖像と四賢の像を新廟に移し、聖像を大成殿に安置して遷座奉告式を行う 林春常(鳳岡)、大学頭に任ぜられる(以後、林家がこれを世襲) |
1698 | 11 | 4月、雑司ヶ谷の薬園の移転に伴い、神農像を湯島に移し、祠堂を建てて安置する 9月、「勅額家事」で忍岡の旧廟が類焼し、廃絶 |
1699 | 12 | 11月、湯島聖堂の大成殿、御成御殿、学寮などが焼失(第一回) |
1704 | 宝永元 | 12月、湯島聖堂再建 |
1717 | 享保2 | 7月、将軍吉宗の命により、林家が湯島聖堂仰高門内東舎で四書の公開講義(仰高門日講)を開始 |
1718 | 3 | 9月、聖堂学舎に初めて林門以外の講師(木下順庵の養子寅亮、荻生徂徠の弟観)が加わる |
1723 | 8 | 2月、林信篤が大学頭を退職し、三男信充が大学頭を継ぐ |
1760 | 宝暦10 | 11月、荒廃した湯島聖堂を修復 |
1772 | 明和9 | 2月、明和の大火で湯島聖堂焼失(第二回) |
1774 | 3 | 5月、湯島聖堂再建 |
1786 | 天明6 | 正月、火事により湯島聖堂焼失(第三回) |
1787 | 7 | 正月、大学頭林信徴没、富田明親の二男が林信敬として大学頭となる(林羅山の血統が断絶) 9月、湯島聖堂再建 |
1790 | 寛政2 | 5月、老中首座松平定信が大学頭林信敬に門人の異学を禁じ、正学を極めるよう注意を促す(寛政異学の禁) |
1792 | 4 | 9月、湯島聖堂の庁堂で15歳以上の旗本・御家人を対象に初めて学問吟味を実施 |
1793 | 5 | 4月、大学頭林信敬没(林羅山の血統が再絶) 11月、15歳未満の直参子弟を対象に初めて素読吟味(童科)を実施 12月、幕府が美濃岩村藩主松平乗薀の第二子熊蔵に林家第八代を継がせ、林衡(述斎)と称して大学頭に |
1794 | 6 | 2月、学問吟味を再度実施(受験者237名に対し合格者19名)、以後3年ごとに実施 |
1797 | 9 | 2月、湯島聖堂の神農像を医学館に移す 12月、忍岡以来の林家の家塾とその塾生を廃し、湯島聖堂を旗本・御家人を教育する幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)に |
1798 | 10 | 3月、朱舜水が製作した孔子廟模型を参考に湯島聖堂の新廟の工事開始 |
1799 | 11 | 10月、湯島聖堂の新廟落成 |
1838 | 天保9 | 林衡(述斎)没、その子皝(樫宇)が大学頭に |
1868 | 明治元 | 6月、昌平坂学問所を学校と改称 |
1869 | 2 | 学校を大学と改め、旧幕府が創設した洋書調所・医学所を再興して開成学校・医学校に |
1871 | 4 | 7月、大学を廃して文部省を置く 9月、文部省博物局が設けられ、大成殿が博物館となる |
1872 | 5 | 3月、大成殿で文部省博物局主催の湯島聖堂博覧会が開催される 文部省が湯島から大手町に移転し、その跡地に師範学校が開設 |
1873 | 6 | 8月、東京以外に師範学校が設立されたのを受け、湯島の師範学校は東京師範学校と改称 |
1886 | 19 | 4月、師範学校令により、東京師範学校は東京高等師範学校に昇格 |
1903 | 36 | 東京高等師範学校が湯島から大塚に移転 |
1922 | 11 | 3月、湯島聖堂が国の史跡に指定される |
1923 | 12 | 9月、関東大震災で湯島聖堂は入徳門と水屋を除き、すべての建物が焼失、孔子像・四賢像も焼失 |
1935 | 昭和10 | 湯島聖堂に伊藤忠太設計によるコンクリート製の大成殿が再建される |
1975 | 50 | 台湾の台北ライオンズクラブから孔子像が寄贈される |
参考資料
- 狩野山雪筆・金世濂賛「歴聖大儒像」(令和4年度 筑波大学附属図書館特別展「孔子を祀る―「歴聖大儒像」の世界」 )
- 「特集 儒教の美術 湯島聖堂由来の絵画工芸を中心にして」(東京国立博物館 2023年6月27日)
- 国立国会図書館デジタルコレクション 『聖堂物語 湯島聖堂略志』( )→
- 杉原たく哉「狩野山雪筆歴聖大儒像について」(美術史研究第30号 1992年12月)→国立国会図書館デジタルコレクション
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