【コラム】菩薩半跏像と古代の国際結婚

日韓交流の歴史と文化
法隆寺宝物館(東京国立博物館)

 1993年、法隆寺は日本で初めて世界文化遺産に登録されました。しかし、この古刹も、明治維新の際に全国の寺院を襲った「廃仏毀釈」によって、大きな打撃を受けました。1872(明治4)年には、寺領を没収する上知令が出され、1875(明治7)年には政府からの寺禄も廃止され、深刻な財政難に陥ってしまいました。そこで法隆寺は、1879(明治11)年、寺に伝わる宝物を皇室に献上することにしました。皇室からは一万円が下賜され、荒廃した堂塔の修復に当てられました。このとき献上された宝物を現在保管・展示しているのが、東京国立博物館の法隆寺宝物館です。
 この宝物の中に「菩薩半跏像」と呼ばれる金銅製の仏像があります。像高38.8センチの小さな仏像ですが、台座に刻まれた銘文から、その造仏の背景を窺うことができます。

 歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫爲分韓婦夫人名阿麻古願南无頂礼作奏也
(歳次丙寅年正月生十八日に記す、高屋大夫、分かれにし韓婦夫人、名阿麻古が為に願ひ南无頂礼して作り奏す也)

 銘文によれば、高屋大夫という人物が、亡くなった夫人の菩提を弔うために造ったものだといいます。「丙寅」の年については、推古天皇14年(606)と天智天皇5年(666)の2つの説がありますが、飛鳥時代であることは確かなようです。
 この仏像が造られたころ、東アジアは大統一の時代を迎えていました。589年、隋が270年ぶりに中国全土を統一すると、その後を承けた唐は新羅に加勢して、百済と高句麗をつぎつぎと滅ぼしていきました。
 戦乱の中、百済や高句麗からは多くの人々が倭に渡っていました。高屋大夫の夫人も「韓婦」と書かれているところをみると、朝鮮半島の出身者あるいはその子孫であったようです。高屋大夫は、異国から来たこの女性をとても愛していたのでしょう、銘文の中に「韓婦夫人、名阿麻古が為に(朝鮮出身の妻、名はアマコのために)」と発願の趣意を刻んでいます。

▼重要文化財「菩薩半跏像」(東京国立博物館蔵)

▼重要文化財「菩薩半跏像(台座前部銘文)」

▼重要文化財「菩薩半跏像(台座左側部銘文)」

参考資料

  1. 【重要文化財】菩薩半跏像(東京国立博物館蔵→e國寶

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