第7回 倭から日本へ

日中交流の史跡と文化

第7回 倭から日本へ~日本はいつから日本になったのか?

 中国では、8世紀頃まで日本を「倭」と呼び、日本も対外的には「倭」を自称していました。では、この「倭」という名はどこから来たのでしょうか。
 弘仁4年(813年)に行われた『日本書紀』の講義録『弘仁私記』の序の注に、こんな一節があります。「倭の義はいまつまびらかならず。或いはいわく、我を称するの音を取りて、漢人がこれを名づくるところの字なり」。倭の意味は不明だが、一説には古代日本語の一人称「わ」に、中国人がこの字を当て、名とし たという。面白い説です。
 その後、倭の人びとが漢籍に親しむようになると、この字に侮蔑的な意味があることを知ります。たとえば、当時、漢詩文の手本とされた『文選』にも、伝説上の醜女として「倭傀」の名が登場します。
 そこで倭は、対外的な国号を「日本」と改めました。その時期については、『大宝律令』(701年成立)にこれを定めた条文があることから、その成立以前であることが分かっています。
一方、これが新羅や唐に伝えられた時期については、諸説がありますが、近年、吉林大学の王連龍氏が、唐の儀鳳3年(678年)に没した禰軍でいぐんという人物の墓誌に「日本の余噍よしょう(生き残り)、扶桑(日本列島)にりて以て誅をのがる」という一節を発見し、議論を呼んでいます。
 禰軍は、もと百済の高官でしたが、660年の百済滅亡の際、唐側に帰順し、665年には唐の使節として倭を訪れています。このため王連龍氏は、墓誌の「日本」はまさに日本を指すといいますが、歴史学者の東野治之氏は、これは国名ではないと反論しています。
 一方、朝鮮半島の古代史を記した『三国史記』を見ると、新羅の文武王10年(670年)に「倭国、号を日本にあらたむ」という記事があります。ただ、これは中国の正史『新唐書』の記事と酷似しているため、それを読み誤って写したと考える研究者もいます。『新唐書』には、この記事の前に「後(その後)」の一字があるため、正確な年は不明なのです。
 では、なぜ「日本」なのか。倭の使節は、唐の人びとにこう語ったそうです。「国、日づる処に近し、以て名と為す」。わが国は日の昇る地に近い、ゆえにこれを国号としたと。
 こうして遅くとも8世紀初め、「倭」は「日本」に生まれ変わったのです。

▼禰軍墓誌拓本

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