【コラム】天武・持統時代の遺跡
663年、倭は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。672年、敗戦の責任者であった天智天皇が没すると、皇室内でクーデターが起こり、天智天皇の弟の大海人皇子が、甥の大友皇子を自殺に追いやり、即位しました。天武天皇です。
天武天皇とその皇后であった持統天皇の時代、遣唐使の派遣は中断され、30年以上にわたって唐との国交は断絶しました。その間、天武天皇と持統天皇は、律令制の導入に代表される内政改革に専念しました。倭という国号を日本に改めたのも、恐らくはこの時期でしょう。
天武天皇は中国に倣って、通貨の発行による貨幣制度の導入も試みていたようです。『日本書紀』によれば、天武12年(683年)、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫なかれ」という詔を出し、地金貨幣である銀銭から通貨である銅銭への転換を命じたといいます。それを裏付ける遺跡も発見されています。1998年、天武・持統時代の官営工房跡とされる飛鳥池工房遺跡から、大量の銅銭とその鋳型が出土したのです。日本最古の通貨とされる富本銭です。使用が禁止され、裁断された地金貨幣の無文銀銭も見つかりました。
この遺跡からは、当時すでに「天皇」という称号が使われていたことを示す文物も見つかっています。「丁丑」の紀年のある木簡とともに、「天皇聚□弘寅□」と書かれた木簡が出土したのです。「丁丑」は天武天皇6年(677年)と比定されています。
奈良県明日香村にある飛鳥宮跡からは、飛鳥時代の歴代の宮跡とともに、天武・持統時代の飛鳥浄御原宮跡の遺構も見つかっています。また、明日香村野口には、天武天皇と持統天皇を合葬した檜隈大内陵(野口王墓古墳)があります。
▼富本銭とその鋳型(飛鳥池工房遺跡出土)
▼「天皇」字が墨書された木簡(飛鳥池工房遺跡出土)1
▼檜隈大内陵(野口王墓古墳)
注
- 木簡庫 https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNL36000101
参考資料
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