【コメント】『日本書紀』の謎
『日本書紀』は、奈良時代の初め、720年に完成しました。しかし、その編纂作業は、飛鳥時代の末、天武・持統両天皇の時代(673~697年)から始まっていたようです。では、なぜこの時代に『日本書紀』は編纂されたのでしょうか。
663年、倭は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。672年、敗戦の責任者であった天智天皇が没すると、皇室内でクーデターが起こり、弟の大海人皇子が即位しました。天武天皇です。
白村江の戦いの後、倭は669年を最後に遣唐使の派遣を停止し、30年以上にわたって唐との国交が断絶してしまいました。その間、天武天皇とその跡を継いだ皇后の持統天皇は、律令制の導入に代表される内政改革に専念しました。その一環として行われたのが、『日本書紀』の編纂でした。敗戦によって威信を失い、唐との国交も断たれた倭の皇室にとって、その正統性を示すことが急務だったのです。
そのためか、『日本書紀』にはいくつかの不可解な点があります。その一つが年代です。『日本書紀』と朝鮮の史書を比べてみると、年代に大きなずれが生じているところがあるのです。
これにいち早く気づいたのは、江戸時代の国学者・本居宣長でした。宣長は、『日本書紀』に記された百済王の生没年が、朝鮮の史書『東国通鑑』と120年ものずれが生じていることを指摘しました。
本居宣長『古事記伝』巻33
『東国通鑑』などには、阿花を阿莘と作て、其の元年は晋太元十七年とあれば、仁徳天皇八十年にあたり、その薨たるは其十四年とあれば、履仲天皇六年にあたれば、『書紀』と百二十年ばかり違へり。そもそも『東国通鑑』などは、信がたきこと多しといへども、此年代は、彼書の方がよろしかるべし。『書紀』は伝への乱にて、年代違へりと見ゆ。
では、なぜこうしたずれが生じたのでしょうか。英国の外交官で日本研究者でもあったアストン(William George Aston、1841~1911)は、『日本書紀』に記された上古の天皇の在位期間が異常に長い一方、朝鮮の史書と中国の史書の年代には一致が見られることから、朝鮮の史書の方が信頼できるとし、このズレは『日本書紀』の編者が干支の実年代を誤った結果と考えました。645年以前、倭には年号はなく、年代は干支(十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞)によって表されていました。干支は60年ごとに1運するので、干支を2運誤まれば、120年のずれが生じるのです。
この研究をさらに進めたのが、明治時代の歴史学者の那珂通世です。那珂は、『日本書紀』と『東国通鑑』に記された歴代の百済王の没年を比較し、腆支王の没年を唯一の例外として、神功皇后紀と応神天皇紀に記された百済王の没年が『東国通鑑』と一律120年ずれていることを明らかにしました(下表参照)。
▼『日本書紀』『東国通鑑』紀年対照表([ ]内は頭注・割注) | |||
日本書紀 | 東国通鑑 | ||
西暦 | 記事 | 西暦 | 記事 |
239 己未 |
神功皇后三十九年,是年也大歲己未。[魏志云明帝景初三年六月,倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。] | 該当記事無し | |
240 庚申 |
神功皇后四十年[魏志云,正始元年,遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬詣倭國也]。 | 該当記事無し | |
243 癸亥 |
神功皇后四十三年[魏志云,正始四年,倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻]。 | 該当記事無し | |
255 乙亥 |
神功皇后五十五年、百濟背古王薨。 | 375 乙亥 |
[乙亥・晉寧康三年]百濟王近肖古薨、太子近仇首立。 |
264 甲申 |
神功皇后六十四年、百濟國貴須王薨、王子枕流王立爲王。 | 384 甲申 |
[甲申・晉大元九年]百濟王近仇首薨、元子枕流立。 |
265 乙酉 |
神功皇后六十五年、百濟枕流王薨、王子阿花年少、叔父辰斯奪立爲王。 | 385 乙酉 |
[乙酉・晉太元十年]百濟王枕流薨,太子阿莘幼,王弟辰斯立。 |
266 丙戌 |
神功皇后六十六年[是年晉武帝泰初二年,晉起居注云武帝泰初二年十月,倭女王遣重譯貢獻] | 該当記事無し | |
272 壬辰 |
應神天皇三年、是歳、百濟辰斯王、失禮於貴國天皇、故遣紀角宿彌、羽田矢代宿彌、石川宿彌、木菟宿彌、嘖譲其无禮狀、由是百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿彌等便立阿花爲王而歸。 | 392 壬辰 |
[壬辰・晉太元十七年]百濟王辰斯薨於狗原行宮、枕流之子阿莘立。 |
277 丁酉 |
應神天皇八年『百濟記』云、阿花王立、无禮於貴國、故奪我枕彌多禮及峴南支侵谷那東韓之地、是以遣王子直支于天朝、以修先王之好也。 | 397 丁酉 |
[丁酉・晉安帝隆安元年]夏五月、百済与倭結好、遣太子腆支爲質。 |
285 乙巳 |
應神天皇十六年、是歳百濟阿花王薨、天皇召直支王謂之曰「汝返於国以嗣位」、仍且賜東韓之地而遣之 | 405 乙巳 |
[乙巳・晉義熙元年]秋九月、百濟王阿莘薨、太子腆支質倭國不還,仲弟訓解攝國政以待太子之還、季弟碟禮殺訓解、自立爲王。腆支聞王訃、痛哭請歸,倭主以兵百人衛送,腆支既至國界漢城人解忠迎謂曰大王棄世,碟禮殺兄自立,願太子早爲之計。腆支以倭兵自衛,依海島備之,國人殺碟禮,迎立爲王。 |
294 甲寅 |
應神天皇二十五年百濟直支王薨,既子久爾辛立爲王。 | 420 庚申 |
[庚申・宋高祖永初元年]春三月,百濟王腆支薨,長子久爾辛立。 |
那珂通世『上世年紀考』(養徳社 1948年)pp.51-53をもとに作成 |
では、なぜ神功皇后紀と応神天皇紀の記事は120年ずれたのでしょうか。津田左右吉は、アストンがいうような干支の実年代の誤りではなく、『日本書紀』の編者が故意に干支二運ずらしたのだと主張しました。
津田左右吉『日本上代史研究』岩波書店 1930年 p.236
魏志の倭女王卑弥呼に対応するやうに特に神功紀を立て、従って応神朝からの後の歴朝の時代を順次上代にくり上げ、‥‥百済の近肖王乃至久爾辛王の治世を干支二運の前に置きかへて、‥‥神功応神二朝の時代に一致させた。
『日本書紀』の神功皇后三十九年には「この年、大歳は己未」という記事が見えます。大歳とは干支紀年のこと。このように干支を記すのは、何か記録すべき出来事があった場合なのですが、ここには干支しか記されていません。そのかわりにこんな注が加えられています。「『魏志』に云う、明帝の景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む」。魏の景初三年1の干支は己未でしたから、これに合わせてこの記事を記したことがわかります。“三韓征伐”で名高い神功皇后と、“親魏倭王”に封ぜられた倭の女王卑弥呼を関連づけることで、中国との結びつきを暗に示そうとしたのでしょう。
▼「百濟背古王薨」(『日本書紀』巻九)
▼「百濟王近肖古薨」(『東国通鑑』巻之四)
▼本居宣長『古事記伝』巻三十三
注
- 景初三年
宮内庁書陵部が所蔵する紹煕本(宋の紹煕年間(1190年-1194年)の刊本)を始めとして、現存する『三国志』の諸刊本はいずれも「景初二年」とするが、それ以前の諸本では『日本書紀』の注と同じく「景初三年」としている。7世紀 7世紀 7世紀 8世紀 10世紀 12世紀 翰苑 梁書 北史 日本書紀 太平御覧 紹煕本 景初三年 景初三年 景初三年 景初三年 景初三年 景初二年
参考資料
- William George Aston:Early Japanese History, Transactions of the Asiatic Society of Japan Vol. XVI 1889 Yokohama
- 本居宣長『古事記伝』→国文学研究資料館
- 那珂通世『上世年紀考』(養徳社 1948年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 津田左右吉『日本上代史研究』(岩波書店 1930年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡本堅次『人物叢書 神功皇后』(吉川弘文館 1959年)→国立国会図書館デジタルコレクション
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