【コラム】隋の使節を迎えた宮殿
雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)
第二次遣隋使は隋との交渉を無事成功させました。「天子」という言葉に腹を立てた煬帝でしたが、遣隋使が帰国する際には、裴世清らを答礼使として倭に派遣したのです。当時隋は高句麗と対峙していましたから、その背後にある倭とはよい関係を築いておきたかったのでしょう。
では、倭はこの答礼使をどこで迎えたのでしょうか。
時代は少し遡りますが、隋が中国全土を統一する以前、東アジアは諸民族が複雑に絡み合う、戦乱の時代を迎えていました。中国の北半分を支配していた北魏は東西に分裂し、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が互いに抗争を繰り返していました。そうした中、百済の聖明王(?-554)は中国南朝の梁に使節を送り、仏教を通じて支援を得ようとしました。梁の武帝は、自らを「三宝奴」(仏法僧に仕えるしもべ)と称し、帝位を捨てて出家を図るほど仏教に深く帰依していたからです。
聖明王は倭にも仏教を伝えました。当時、倭では渡来人の司馬達等やその支援者である蘇我氏によって、仏教の私的な信仰が行われていました。しかし、仏教が外交の場に持ち込まると、物部氏などが強い反対の声を挙げました。外来の宗教を安易に受け入れれば、ヤマト王権の精神的紐帯である神々への信仰が脅かされると考えたのでしょう。このため聖明王から贈られた仏像や経典は、蘇我氏が小墾田の家に安置し、向原の家を寄進して寺にすることにしました。しかし、その後疫病が流行すると、仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼き払われてしまいました。
589年、百済に留学した司馬達等の娘善信尼は、この小墾田の地に日本初の尼寺を開きました。603年、推古天皇はこの尼寺を豊浦宮の地に移し、その跡地に小墾田宮を造りました。608年、推古天皇と厩戸皇子(聖徳太子)はここで隋の答礼使を謁見しました。
では、小墾田宮はどこにあったのでしょうか。
1987年、明日香村奥山にある雷丘東方遺跡から「小治田宮」と記された土器が発見されました。小墾田宮は『古事記』では「小治田宮」と書かれています。このため現在ではこの地が小墾田宮の推定地とされています。
この遺跡から750メートルほど東へ行ったところに奈良文化財研究所飛鳥資料館があります。資料館の中には、古代の飛鳥を再現したジオラマがあり、その隅に小墾田宮も復元されています。宮殿というよりも、村役場といった方がいいような小さな建築群です。しかし、この小さな宮殿で、十七条の憲法や冠位十二階といった制度改革や、隋からの使節の謁見が行われ、その後300年に及ぶ日中の公式交流が始まったのです。(後藤由貴乃)
雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)
〒634-0102 奈良県高市郡明日香村奥山86
奈良文化財研究所飛鳥資料館
〒634-0102 奈良県高市郡明日香村奥山601
参考資料
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