【コラム】隋・唐からの訪日使節(作成中)
日本は600年の第一回遣隋使から、838年の最後の遣唐使まで、20回以上にわたって使節を派遣しました。では、隋や唐からはどのような使節が日本を訪れたのでしょうか。
高句麗との戦いに手を焼いていた隋は、その背後にいる倭に強い関心を持っていたようです。第2回遣隋使がもたらした国書を「蕃夷の書、無礼なる者あり」と怒りながらも、倭に裴世清らの使節を派遣し、返書と贈り物を届けさせました。返書には、遣隋使派遣の謝辞と、倭の治世と風俗を称える言葉が記されていました1。
隋が滅び、唐が建国すると、倭は唐との関係構築のため、630年、第1回遣唐使を派遣します。唐は遠邦からの使節を労い、所司に歳貢の免除を命じるとともに、翌年、遣唐使が帰国する際には、宣諭使として高表仁らを倭に派遣しました。しかし高表仁は、倭の王子と礼を争い、朝命を宣せずして帰ったといいます。高表仁は一代の名臣と呼ばれた隋の宰相高颎の子ですが、相手憚らぬ直言で誅殺された父高颎と同様、剛直な人物だったらしく、外交的な妥協はできなかったようです。そのため中国の史書は「綏遠の才なし」(外交の手腕なし)と酷評しています2。
645年、倭は乙巳の変(大化の改新)で百済に肩入れしていた蘇我氏を滅ぼすと、再び唐との関係構築を図り、653年、654年、659年と連続して遣唐使を派遣します。ところが660年、唐・新羅連合軍が百済を滅ぼすと、国内に動揺が広がります。唐・新羅連合軍が次に狙うのは我が国ではないのか。こうして663年、倭は百済復興のため朝鮮半島に大軍を派兵しました。
古代最大の海外派兵となったこの戦いは、倭の大敗に終わりました。唐・新羅連合軍の逆襲を恐れた倭は、対馬や壱岐、筑紫に防人や烽火台を配備し、大宰府を守るため、長さ1.2キロに及ぶ巨大な濠と土塁(水城)や山城を設けました。
これに対して、唐側の反応は意外なものでした。664年、百済に駐留していた唐の総帥劉仁願は、郭務悰らを倭に派遣します。突然の使節派遣に驚いた倭は、「天子の使人にあらず」を口実に使節を追い返します。すると唐は、翌665年、劉徳高を正使として、再び郭務悰を倭に派遣します。唐側に和平の意思があることを確認した倭は、唐の使節を送るとともに、高宗の即位を祝う遣唐使を派遣しました。
倭との和平を実現した唐は、668年、ついに宿敵高句麗を滅ぼします。翌669年、倭は高句麗平定を祝う遣唐使を派遣しますが、この年、新羅の支援を受けた高句麗の遺民が、叛乱を起こします。唐は倭が再び朝鮮半島の情勢に介入するのでは考え、47艘の船と二千の兵とともに、三度、郭務悰を倭に派遣しました。突然の大軍の到来に、倭の国内は騒然となりましたが、白村江の戦いを指揮した天智天皇が崩御すると、郭務悰らはみな喪服を着て、三度哀しみの声を挙げ、皇居のある東に向って深々と頭を下げると、信書と贈り物を献じ、それから二ヶ月後、帰国しました3。
6世紀末から7世紀にかけて、東アジアは大統一の時代を迎えました。弱肉強食の時代の中で、倭の対外政策は紆余曲折を重ねます。しかし、隋や唐からは一貫して、倭との善隣友好を求める使節が派遣されていました。なかには高表仁のように、国の体面を守ったために、歴史に汚名を残してしまった人もいました。日本の草創期に中国が示してくれた善隣友好を忘れてはいけないでしょう。
注
- 『日本書紀』推古天皇十六年
秋八月辛丑の朔、癸卯(三日)、唐客京に入る。是の日、餝騎七十五匹を遣して、唐客を海石榴市の衢に迎ふ。額田部連比羅夫、以て禮辭を告ぐ。
壬子、唐客を朝庭に召して、使の旨を奏せしむ。時に阿倍鳥臣・物部依網連抱の二人を、客の導者と爲す。是に於いて、大唐の國信物、庭中に置く。時に使主裴世淸、親ら書を持ちて兩度再拜し、使の旨を言上して立つ。其の書に曰く、
「皇帝、倭皇を問ふ。使人長吏大禮蘇因高等至りて懷を具にす。朕、欽みて寶命を承け、區宇を臨御し、德化を弘め、含靈に覃被せしめんと思ふ。愛育の情、遐邇に隔てなし。知りぬ、皇、海表に介居し、民庶を撫寧し、境內は安樂、風俗は融和、深き氣ばへ至誠にして、遠く朝貢を脩はす。丹款の美、朕、嘉する有り。稍や暄かなり、比常の如し。故に鴻臚寺掌客裴世淸等を遣して、往意を稍や宣べ、幷せて物を送ること別の如し」と。
時に阿倍臣、出で進みて、以て其の書を受けて進み行き、大伴囓連、迎へ出でて書を承け、大門前の机上に置きてこれを奏し、事畢りて退く。是の時、皇子、諸王、諸臣、悉く金の髻花を以て着頭にし、亦た衣服は皆な錦紫、繡織、及び五色の綾羅を用ゐぬ(一に云く、服の色は皆な冠色を用ゐる)。
丙辰(十六日)、唐客等を朝に於いて饗す。九月辛未の朔、乙亥(五日)、客等を難波の大郡に於いて饗す。辛巳(十一日)、唐客裴世淸、罷り歸れば、則ち復た小野妹子臣を以って大使と爲し、吉士雄成を小使と爲し、福利を通事と爲して、唐客に副えて遺はす。
爰に天皇、唐帝を聘ふ。其の辭に曰く、「東天皇、敬みて西皇帝に白す。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至りて、久しき憶ひ方に解けぬ。季秋薄冷、尊候如何、想ふに淸悆ならむ。此にも卽ち常の如し。今大禮蘇因高・大禮乎那利等を遣して往かしむ。謹で白す。不具。」
是の時、唐國に遣されし學生は、倭漢直福因・奈羅譯語惠明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟等幷せて八人なり。
〔参考〕飯田季治『日本書紀新講(下巻)』(明文社 1938年) - 『舊唐書』倭国傳
貞觀五年,遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。
『新唐書』日本傳
太宗貞觀五年,遣使者入朝,帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。 - 『日本書記』天智天皇紀
元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。壬子、郭務悰等、再拜進書函與信物。
夏五月辛卯朔壬寅、以甲冑弓矢賜郭務悰等。是日賜郭務悰等物、總合絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午、高麗遣前部富加抃等進調。庚申、郭務悰等罷歸。 - https://baijiahao.baidu.com/s?id=1733055915329234866&wfr=spider&for=pc
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