日本は600年の第一回遣隋使から、838年の最後の遣唐使まで、20回以上にわたって使節を派遣しました。では、隋や唐からはどのような使節が日本を訪れたのでしょうか。
高句麗との戦いに手を焼いていた隋は、その背後にいる倭に強い関心を持っていたようです。第2回遣隋使がもたらした国書を「蕃夷の書、無礼なる者あり」と怒りながらも、倭に裴世清ら使節を派遣し、返書と贈り物を届けさせました。返書には、遣隋使派遣への謝辞と、倭の治世と風俗を称える言葉が記されています1。
隋が滅び、唐が建国すると、倭は唐との関係構築のため、630年、第1回遣唐使を派遣します。
注
- 『日本書紀』推古天皇十六年
秋八月辛丑の朔、癸卯(三日)、唐客京に入る。是の日、餝騎七十五匹を遣して、唐客を海石榴市の衢に迎ふ。額田部連比羅夫、以て禮辭を告ぐ。
壬子、唐客を朝庭に召して、使の旨を奏せしむ。時に阿倍鳥臣・物部依網連抱の二人を、客の導者と爲す。是に於いて、大唐の國信物、庭中に置く。時に使主裴世淸、親ら書を持ちて兩度再拜し、使の旨を言上して立つ。其の書に曰く「皇帝、倭皇に問ふ。使人長吏大禮蘇因高等至りて懷を具にす。朕、欽みて寶命を承け、區宇を臨仰し、德化を弘め、含靈に覃被せしめんと思ふ。愛育の情、遐邇に隔つなし。知りぬ、皇、海表に介居し、民庶を撫寧し、境內は安樂、風俗は融和、深き氣ばへ至誠にして、遠く朝貢を脩はす。丹款の美、朕、嘉する有り。稍や暄かなり、比常の如し。故に鴻臚寺掌客裴世淸等を遣して、往意を稍や宣べ、幷せて物を送ること別の如し」と。
時に阿倍臣、出で進みて、以て其の書を受けて進み行き、大伴囓連、迎へ出でて書を承け、大門前の机上に置きてこれを奏し、事畢りて退く。是の時、皇子、諸王、諸臣、悉く金の髻花を以て着頭にし、亦た衣服は皆な錦紫、繡織、及び五色の綾羅を用ゐぬ(一に云く、服の色は皆な冠色を用ゐる)。
丙辰(十六日)、唐客等を朝に於いて饗す。九月辛未の朔、乙亥(五日)、客等を難波の大郡に於いて饗す。辛巳(十一日)、唐客裴世淸、罷り歸れば、則ち復た小野妹子臣を以って大使と爲し、吉士雄成を小使と爲し、福利を通事と爲して、唐客に副えて遺はす。
爰に天皇、唐帝を聘ふ。其の辭に曰く、「東天皇、敬みて西皇帝に白す。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至りて、久しき憶ひ方に解けぬ。季秋薄冷、尊候如何、想淸悆。此卽ち常の如し。今大禮蘇因高・大禮乎那利等を遣して往かしむ。謹で白す。不具。」
是の時、唐國に遣されし學生は、倭漢直福因・奈羅譯語惠明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟等幷せて八人なり。
〔参考〕飯田季治『日本書紀新講(下巻)』(明文社 1938年) - https://baijiahao.baidu.com/s?id=1733055915329234866&wfr=spider&for=pc
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