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日中交流の史跡と文化

【コラム】金錯銘鉄剣と中国系渡来人

新井梨紗・清水玲奈  稲荷山いなりやま古墳は、埼玉古墳群の中で最古の古墳で、その時期は5世紀頃とされています。墳丘は全長120メートル、高さ20メートルほどで、県内で3番目の規模を誇る前方後円墳です。墳丘の頂上に登ることができ、周囲の古墳を...
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第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?

第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?~中国系渡来人と仏教  589年、隋が中国全土を統一し、長く続いた南北分裂の時代に終止符が打たれました。倭は隋との外交交渉のため4回にわたって遣隋使を派遣します。このうち第2回遣隋使(607年)の国書にあっ...
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【コラム】仏教伝来を伝える遺跡群―雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)と向原寺(豊浦寺跡地)

後藤由貴乃  中国の南北朝時代、西域から伝えられた仏教は、やがて東アジア各地に広まっていきました。日本に仏教が伝えられたのは、6世紀ごろ。その伝統は葬儀での諸習俗をはじめ、お盆やお彼岸など、いまも人々の暮らしの中に息づいています。  そんな...
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第6回 民の心を知るために

第6回 民の心を知るために~『詩経』と『万葉集』  755年、難波で防人(さきもり)の閲兵を行なっていた大伴家持(おおとものやかもち)は、東国各地から防人を引率してきた部領使を通して、防人たちの歌を集めました。「唐衣(からころも)、裾(すそ...
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【コラム】日本の万里の長城「水城」

白鳥満理奈 韓衣からころも裾すそに取りつき泣く子らを 置きてぞ来きぬや母おもなしにして  この歌は、大伴家持¹によって集められ、『万葉集』²に収められた防人歌の1つです。母親のいない我が子を残して、遠い九州まで派遣されることになった一人の父...
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第7回 倭から日本へ

第7回 倭から日本へ~日本はいつから日本になったのか?  中国では、8世紀頃まで日本を「倭」と呼び、日本も対外的には「倭」を自称していました。では、この「倭」という名はどこから来たのでしょうか。  弘仁4年(813年)に行われた『日本書紀』...
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【コラム】天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)

天武・持統天皇陵(檜隅大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ) 田中美有、若尾莉奈  天武天皇と、その皇后であり史上3人目の女性天皇である持統天皇は、6世紀から7世紀にかけて、唐の制度に倣い、漢文による国史『日本書紀』の編纂や律令制の導入、日本...
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第8回 坂上田村麻呂と諸葛孔明

第8回 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろと諸葛孔明  奈良時代から平安時代の初め、日本の朝廷は蝦夷えみしの人びとが暮らす奥州おうしゅう(現在の東北地方)に勢力を拡大していきます。しかし騎射に優れた蝦夷の人びとの抵抗は激しく、789年の第1...
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【コラム】阿弖流爲と母禮の顕彰碑と音羽の滝

柳原瑚子 「そもそも当寺清水寺と申すは、大同二年の御草創、坂の上の田村丸の御願なり」  謡曲『田村』のこの語りにもあるとおり、清水寺は坂上田村麻呂を本願主とする寺です。  平安時代に藤原明衡(989?-1066)が著した「清水寺縁起」によれ...
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第9回 「工匠精神」

第9回 「工匠精神」~中国の人びとを驚かせた日本の工芸技術  中国の人びとの対日イメージの一つに、「工匠精神」があります。日本には精緻で遊び心ある匠(たくみ)の心があるというのです。では、このイメージはどのように作られたのでしょうか。  唐...