第7回 民の心を知るために~『詩経』と『万葉集』
755年、難波で防人の閲兵を行なっていた大伴家持は、東国各地から防人を引率してきた部領使を通して、防人たちの歌を集めました。なかには、こんなせつない歌もありました。
唐衣、裾に取りつき泣く子らを、置きてぞ来ぬや、母なしにして
家持は、兵部少輔(陸軍次官)という防人たちを監督する立場にあったはずなのに、なぜこんな反戦歌のような歌を集めたのでしょうか。
663年、倭は唐と新羅に滅ぼされた百済を再興するため、朝鮮半島へ大軍を派遣しました。日本の古代史上最大の海外派兵となった白村江の戦いです。この戦いに敗れた倭は、唐の制度に倣(なら)って新たな国づくりを始めます。
唐の制度を学ぶなかで、倭はその根幹にある儒教思想の重要性に気づきます。中国には、むかし采詩の官という役人がいて、為政者は彼らが各地から集めた詩を通して、人びとの暮らしを窺い、政治の得失を知り、自らを正していました。そこから305篇を選んで編まれたのが儒教経典の1つ『詩経』だといいます。
「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」。儒教の祖・孔子は、詩を通して人びとの思いを知ることが、治学の出発点だとしました。
家持は父・旅人の赴任により、少年時代を大宰府で過ごしたことがあります。無謀な海外派兵の後始末のために、家族や恋人と離れて国境警備に駆り出された防人たち。そんな彼らが口ずさむ歌を、家持少年も耳にしたことでしょう。日本版の『詩経』ともいえる『万葉集』を編纂した際、彼らの歌を集め、その声を為政者に伝えようと考えたのです。
そのころ朝廷では、新興貴族の藤原仲麻呂が、叔母の光明皇太后や従妹の孝謙天皇を後盾として、権勢を振るっていました。757年、反仲麻呂派のクーデターが未遂に終わると、仲麻呂は政敵を一掃し、独裁体制を確立します。家持も反仲麻呂派のシンパでしたが、儒教的徳治主義を標榜する仲麻呂は、家持が集めた防人たちの声を無視することはできませんでした。その結果、この年、東国からの防人の派遣が停止されたのです。
「国を為す者は必ず先ず民の苦しむ所を知るべし」(王符『潜夫論』述赦)。こうした儒教思想が、派閥の枠を越えて、古代日本の政治を変えていったのです。
▼曼朱院本『万葉集』巻20(京都大学付属図書館蔵)
▼「唐衣、裾に取りつき泣く子らを‥」(曼朱院本『万葉集』巻20 京都大学付属図書館蔵)
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