日中交流の史跡と文化 【コラム】隋の使節を迎えた宮殿―雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地) 【コラム】隋の使節を迎えた宮殿 雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地) 第二次遣隋使は隋との交渉を無事成功させました。「天子」という言葉に腹を立てた煬帝でしたが、遣隋使が帰国する際には、裴世清らを答礼使として倭に派遣したのです。当時隋は高句麗と対... 2025.01.14 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第6回 倭から日本へ 第6回 倭から日本へ~日本はいつから日本になったのか? 中国では、8世紀頃まで日本を「倭」と呼び、日本も対外的には「倭」を自称していました。では、この「倭」という名はどこから来たのでしょうか。 弘仁4年(813年)に行われた『日本書紀』... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コメント】『日本書紀』の謎 【コメント】『日本書紀』の謎 『日本書紀』は、奈良時代の初め、720年に完成しました。しかし、その編纂作業は、飛鳥時代の末、天武・持統両天皇の時代(673~697年)から始まっていたようです。では、なぜこの時代に『日本書紀』は編纂されたの... 2025.01.24 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】天武・持統時代の遺跡 【コラム】天武・持統時代の遺跡 663年、倭は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。672年、敗戦の責任者であった天智天皇が没すると、皇室内でクーデターが起こり、天智天皇の弟の大海人皇子おおあまのみこが、甥の大友皇子を自殺に追い... 2025.01.22 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第7回 民の心を知るために 第7回 民の心を知るために~『詩経』と『万葉集』 755年、難波で防人(さきもり)の閲兵を行なっていた大伴家持(おおとものやかもち)は、東国各地から防人を引率してきた部領使を通して、防人たちの歌を集めました。なかには、こんなせつない歌もあ... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】大宰府と筑紫歌壇 【コラム】大宰府と筑紫歌壇 大伴家持おおとものやかもちは、728年、大宰帥に任命された父・旅人たびとに従い、九州の大宰府に行きました。家持が10歳のころのことです。 当時、九州には、「貧窮問答歌」などで知られる社会派の歌人山上憶良やまの... 2025.01.17 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第8回 坂上田村麻呂と諸葛孔明 第8回 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と諸葛孔明 奈良時代から平安時代の初め、日本の朝廷は蝦夷えみしの人びとが暮らす奥州おうしゅう(現在の東北地方)に勢力を拡大していきます。しかし騎射に優れた蝦夷の人びとの抵抗は激しく、789年の... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】坂上田村麻呂夫妻と清水寺 「そもそも当寺清水寺と申すは、大同二年の御草創、坂の上の田村丸の御願なり」 謡曲『田村』にも謡われているとおり、清水寺は坂上田村麻呂を本願主とする寺です。 平安時代に藤原明衡(989?-1066)が著した「清水寺縁起」によれば、この寺は... 2025.01.28 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第9回 「工匠精神」 第9回 「工匠精神」~中国の人びとを驚かせた日本の工芸技術 中国の人びとの対日イメージの一つに、「工匠精神」があります。日本には精緻で遊び心ある匠(たくみ)の心があるというのです。では、このイメージはどのように作られたのでしょうか。 唐... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】印刷術の誕生と伝播 【コラム】印刷術の誕生と伝播 中国の四大発明の一つである印刷術は、どのように誕生し、日本へと伝えられたのでしょうか。 印刷術の誕生には、仏教が大きく関わっていたようです。『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘は、晩年、高宗の庇護の下、... 2025.02.13 日中交流の史跡と文化