日中交流の史跡と文化

日中交流の史跡と文化

【コラム】隋の使節を迎えた宮殿―雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)

【コラム】隋の使節を迎えた宮殿 雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)  第二次遣隋使は隋との交渉を無事成功させました。「天子」という言葉に腹を立てた煬帝でしたが、遣隋使が帰国する際には、裴世清らを答礼使として倭に派遣したのです。当時隋は高句麗と対...
日中交流の史跡と文化

第6回 倭から日本へ

第6回 倭から日本へ~日本はいつから日本になったのか?  中国では、8世紀頃まで日本を「倭」と呼び、日本も対外的には「倭」を自称していました。では、この「倭」という名はどこから来たのでしょうか。  弘仁4年(813年)に行われた『日本書紀』...
日中交流の史跡と文化

【コメント】『日本書紀』の謎

【コメント】『日本書紀』の謎  『日本書紀』は、奈良時代の初め、720年に完成しました。しかし、その編纂作業は、飛鳥時代の末、天武・持統両天皇の時代(673~697年)から始まっていたようです。では、なぜこの時代に『日本書紀』は編纂されたの...
日中交流の史跡と文化

【コラム】天武・持統時代の遺跡

【コラム】天武・持統時代の遺跡  663年、倭は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。672年、敗戦の責任者であった天智天皇が没すると、皇室内でクーデターが起こり、天智天皇の弟の大海人皇子おおあまのみこが、甥の大友皇子を自殺に追い...
日中交流の史跡と文化

第7回 民の心を知るために

第7回 民の心を知るために~『詩経』と『万葉集』  755年、難波で防人(さきもり)の閲兵を行なっていた大伴家持(おおとものやかもち)は、東国各地から防人を引率してきた部領使を通して、防人たちの歌を集めました。なかには、こんなせつない歌もあ...
日中交流の史跡と文化

【コラム】大宰府と筑紫歌壇

【コラム】大宰府と筑紫歌壇  大伴家持おおとものやかもちは、728年、大宰帥に任命された父・旅人たびとに従い、九州の大宰府に行きました。家持が10歳のころのことです。  当時、九州には、「貧窮問答歌」などで知られる社会派の歌人山上憶良やまの...
日中交流の史跡と文化

第8回 坂上田村麻呂と諸葛孔明

第8回 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と諸葛孔明  奈良時代から平安時代の初め、日本の朝廷は蝦夷えみしの人びとが暮らす奥州おうしゅう(現在の東北地方)に勢力を拡大していきます。しかし騎射に優れた蝦夷の人びとの抵抗は激しく、789年の...
日中交流の史跡と文化

【コラム】坂上田村麻呂夫妻と清水寺

「そもそも当寺清水寺と申すは、大同二年の御草創、坂の上の田村丸の御願なり」  謡曲『田村』にも謡われているとおり、清水寺は坂上田村麻呂を本願主とする寺です。  平安時代に藤原明衡(989?-1066)が著した「清水寺縁起」によれば、この寺は...
日中交流の史跡と文化

第9回 「工匠精神」

第9回 「工匠精神」~中国の人びとを驚かせた日本の工芸技術  中国の人びとの対日イメージの一つに、「工匠精神」があります。日本には精緻で遊び心ある匠(たくみ)の心があるというのです。では、このイメージはどのように作られたのでしょうか。  唐...
日中交流の史跡と文化

【コラム】印刷術の誕生と伝播

【コラム】印刷術の誕生と伝播  中国の四大発明の一つである印刷術は、どのように誕生し、日本へと伝えられたのでしょうか。  印刷術の誕生には、仏教が大きく関わっていたようです。『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘は、晩年、高宗の庇護の下、...