日中交流の史跡と文化 第6回 民の心を知るために 第6回 民の心を知るために~『詩経』と『万葉集』 755年、難波で防人(さきもり)の閲兵を行なっていた大伴家持(おおとものやかもち)は、東国各地から防人を引率してきた部領使を通して、防人たちの歌を集めました。「唐衣(からころも)、裾(すそ... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】日本の万里の長城「水城」 白鳥満理奈 韓衣からころも裾すそに取りつき泣く子らを 置きてぞ来きぬや母おもなしにして この歌は、大伴家持¹によって集められ、『万葉集』²に収められた防人歌の1つです。母親のいない我が子を残して、遠い九州まで派遣されることになった一人の父... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第7回 倭から日本へ 第7回 倭から日本へ~日本はいつから日本になったのか? 中国では、8世紀頃まで日本を「倭」と呼び、日本も対外的には「倭」を自称していました。では、この「倭」という名はどこから来たのでしょうか。 弘仁4年(813年)に行われた『日本書紀』... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】天武・持統天皇陵(檜隅大内陵) 天武・持統天皇陵(檜隅大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ) 田中美有、若尾莉奈 天武天皇と、その皇后であり史上3人目の女性天皇である持統天皇は、6世紀から7世紀にかけて、唐の制度に倣い、漢文による国史『日本書紀』の編纂や律令制の導入、日本... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第8回 坂上田村麻呂と諸葛孔明 第8回 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろと諸葛孔明 奈良時代から平安時代の初め、日本の朝廷は蝦夷えみしの人びとが暮らす奥州おうしゅう(現在の東北地方)に勢力を拡大していきます。しかし騎射に優れた蝦夷の人びとの抵抗は激しく、789年の第1... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】阿弖流爲と母禮の顕彰碑と音羽の滝 柳原瑚子 「そもそも当寺清水寺と申すは、大同二年の御草創、坂の上の田村丸の御願なり」 謡曲『田村』のこの語りにもあるとおり、清水寺は坂上田村麻呂を本願主とする寺です。 平安時代に藤原明衡(989?-1066)が著した「清水寺縁起」によれ... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第9回 「工匠精神」 第9回 「工匠精神」~中国の人びとを驚かせた日本の工芸技術 中国の人びとの対日イメージの一つに、「工匠精神」があります。日本には精緻で遊び心ある匠(たくみ)の心があるというのです。では、このイメージはどのように作られたのでしょうか。 唐... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第10回 かなの誕生 文字はヒトがコトバを記録するために発明した最初の道具です。コトバを音声のまま記録できるようになったいまでも、文字はコトバを伝え合う道具として、私たちの文明を支えています。では、日本語を記録するための文字であるかなは、いつごろ誕生したのでしょ... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】漢字からひらがなへ――奈良薬師寺「仏足跡歌碑」 鈴木 靖 古墳時代、日本にはまだ自らの言葉を記す文字はなく、文書はすべて漢文で書かれていました。しかし、奈良・平安時代になり、世界中の使節や商人が集まる唐を訪れた日本の使節や留学生たちは、世界には中国以外にも自らの言葉を自らの文字で記す国... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第11回 渡来僧から歯医者まで~民間交流の時代へ 1987年、福岡市の旧平和台球場の改修現場から鴻臚館こうろかんの遺構が発見されました。古代、日中の外交や貿易の窓口であった施設で、9世紀末に遣唐使が廃止された後も、民間交流の拠点となっていました。 その後、11世紀後半になると、民間交流... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化