日中交流の史跡と文化 【コラム】渡来人(作成中) 【コラム】渡来人 平安京に都を移した桓武天皇は、延暦18年(799)、諸氏族に本系帳の進上を命じました。本系帳とは、各氏族の由来と系譜を記した家系図です。弘仁6年(815)、こうして集められた本系帳をもとに、諸氏族の由来と系譜をまとめた『... 2025.05.06 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか? 第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?~中国系渡来人と仏教 589年、隋が中国全土を統一し、長く続いた南北分裂の時代に終止符が打たれました。倭は隋との外交交渉のため4回にわたって遣隋使を派遣します。このうち第2回遣隋使(607年)の国書にあっ... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】隋の使節を迎えた宮殿―雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地) 【コラム】隋の使節を迎えた宮殿 雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地) 第二次遣隋使は隋との交渉を無事成功させました。「天子」という言葉に腹を立てた煬帝でしたが、遣隋使が帰国する際には、裴世清らを答礼使として倭に派遣したのです。当時隋は高句麗と対... 2025.01.14 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】遣隋使の謎 【コラム】遣隋使の謎 『日本書紀』などの日本側の記録によれば、遣隋使は女性天皇である推古天皇の時代に派遣されました。ところが、『隋書』倭国伝などの中国側の記録に見ると、開皇20年(600年)に派遣された第一回遣隋使の使者は、王の姓は「阿毎... 2025.05.12 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第6回 倭から日本へ 第6回 倭から日本へ~日本はいつから日本になったのか? 中国では、8世紀頃まで日本を「倭」と呼び、日本も対外的には「倭」を自称していました。では、この「倭」という名はどこから来たのでしょうか。 弘仁4年(813年)に行われた『日本書紀』... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】『日本書紀』の謎(作成中) 【コラム】『日本書紀』の謎 『日本書紀』は、奈良時代の初め、720年に完成しました。しかし、その編纂作業は、飛鳥時代の末、天武・持統両天皇の時代(673~697年)から始まっていたようです。では、なぜこの時代に『日本書紀』は編纂されたので... 2025.01.24 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】隋・唐からの訪日使節(作成中) 【コラム】隋・唐からの訪日使節(作成中) 日本は600年の第一回遣隋使から、838年の最後の遣唐使まで、20回以上にわたって使節を派遣しました。では、隋や唐からはどのような使節が日本を訪れたのでしょうか。 高句麗との戦いに手を焼いていた... 2025.07.07 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】天武・持統時代の遺跡 【コラム】天武・持統時代の遺跡 663年、倭は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。672年、敗戦の責任者であった天智天皇が没すると、皇室内でクーデターが起こり、天智天皇の弟の大海人皇子おおあまのみこが、甥の大友皇子を自殺に追い... 2025.01.22 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 第7回 民の心を知るために 第7回 民の心を知るために~『詩経』と『万葉集』 755年、難波で防人(さきもり)の閲兵を行なっていた大伴家持(おおとものやかもち)は、東国各地から防人を引率してきた部領使を通して、防人たちの歌を集めました。なかには、こんなせつない歌もあ... 2024.01.25 日中交流の史跡と文化
日中交流の史跡と文化 【コラム】大宰府と筑紫歌壇 【コラム】大宰府と筑紫歌壇 大伴家持おおとものやかもちは、728年、大宰帥に任命された父・旅人たびとに従い、九州の大宰府に行きました。家持が10歳のころのことです。 当時、九州には、「貧窮問答歌」などで知られる社会派の歌人山上憶良やまの... 2025.01.17 日中交流の史跡と文化