日中交流の史跡と文化

日中交流の史跡と文化

【コラム】渡来人(作成中)

【コラム】渡来人  平安京に都を移した桓武天皇は、延暦18年(799)、諸氏族に本系帳の進上を命じました。本系帳とは、各氏族の由来と系譜を記した家系図です。弘仁6年(815)、こうして集められた本系帳をもとに、諸氏族の由来と系譜をまとめた『...
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第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?

第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか?~中国系渡来人と仏教  589年、隋が中国全土を統一し、長く続いた南北分裂の時代に終止符が打たれました。倭は隋との外交交渉のため4回にわたって遣隋使を派遣します。このうち第2回遣隋使(607年)の国書にあっ...
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【コラム】隋の使節を迎えた宮殿―雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)

【コラム】隋の使節を迎えた宮殿 雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)  第二次遣隋使は隋との交渉を無事成功させました。「天子」という言葉に腹を立てた煬帝でしたが、遣隋使が帰国する際には、裴世清らを答礼使として倭に派遣したのです。当時隋は高句麗と対...
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【コラム】遣隋使の謎

【コラム】遣隋使の謎  『日本書紀』などの日本側の記録によれば、遣隋使は女性天皇である推古天皇の時代に派遣されました。ところが、『隋書』倭国伝などの中国側の記録に見ると、開皇20年(600年)に派遣された第一回遣隋使の使者は、王の姓は「阿毎...
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第6回 倭から日本へ

第6回 倭から日本へ~日本はいつから日本になったのか?  中国では、8世紀頃まで日本を「倭」と呼び、日本も対外的には「倭」を自称していました。では、この「倭」という名はどこから来たのでしょうか。  弘仁4年(813年)に行われた『日本書紀』...
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【コラム】『日本書紀』の謎(作成中)

【コラム】『日本書紀』の謎  『日本書紀』は、奈良時代の初め、720年に完成しました。しかし、その編纂作業は、飛鳥時代の末、天武・持統両天皇の時代(673~697年)から始まっていたようです。では、なぜこの時代に『日本書紀』は編纂されたので...
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【コラム】隋・唐からの訪日使節(作成中)

【コラム】隋・唐からの訪日使節(作成中)  日本は600年の第一回遣隋使から、838年の最後の遣唐使まで、20回以上にわたって使節を派遣しました。では、隋や唐からはどのような使節が日本を訪れたのでしょうか。  高句麗との戦いに手を焼いていた...
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【コラム】天武・持統時代の遺跡

【コラム】天武・持統時代の遺跡  663年、倭は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。672年、敗戦の責任者であった天智天皇が没すると、皇室内でクーデターが起こり、天智天皇の弟の大海人皇子おおあまのみこが、甥の大友皇子を自殺に追い...
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第7回 民の心を知るために

第7回 民の心を知るために~『詩経』と『万葉集』  755年、難波で防人(さきもり)の閲兵を行なっていた大伴家持(おおとものやかもち)は、東国各地から防人を引率してきた部領使を通して、防人たちの歌を集めました。なかには、こんなせつない歌もあ...
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【コラム】大宰府と筑紫歌壇

【コラム】大宰府と筑紫歌壇  大伴家持おおとものやかもちは、728年、大宰帥に任命された父・旅人たびとに従い、九州の大宰府に行きました。家持が10歳のころのことです。  当時、九州には、「貧窮問答歌」などで知られる社会派の歌人山上憶良やまの...