日中交流の史跡と文化

日中交流の史跡と文化

【コラム】耳塚に葬られた明の兵士たち

【コラム】耳塚に葬られた明の兵士たち  秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮だけでなく、中国にも多大な被害を与えました。戦争にかかった費用は1,700万両余り1。当時の明朝の歳入は1,800万両余りといいますから2、歳入のほとんどが戦費に費やされたことに...
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第15回 東アジアの平和の礎となった思想―儒教

第15回 東アジアの平和の礎となった思想―儒教  応仁の乱以来、100年以上続いた戦国時代。人びとは、秩序なき乱世に苦しんでいました。公家の家に生まれた藤原惺窩(ふじわら せいか)もその1人。惺窩は、18歳の時、土豪の襲撃により父と兄を失い...
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【コラム】朱舜水が伝えた孔子像

【コラム】朱舜水が伝えた孔子像  東京の湯島聖堂に1体の孔子像があります。これは明の遺臣・朱舜水が中国から伝えたものといいます。では、なぜ湯島聖堂にこの孔子像があるのでしょうか。  九州の柳河藩に安東守約という儒官がいました。学問好きの彼は...
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第16回 唐通事

第16回 唐通事  江戸時代、キリスト教の拡大を恐れた幕府は、1635年、海外渡航を全面的に禁止し、貿易港を長崎一港に定めました。いわゆる鎖国の始まりです。  翌36年には港の一角にポルトガル人を収容する出島が作られ、41年にポルトガル人を...
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【コラム】唐人屋敷と興福寺・長崎新地中華街

【コラム】唐人屋敷と興福寺・長崎新地中華街  唐人屋敷とは、1689年(元禄2年)、江戸幕府が現在の長崎市館内町に設けた唐人(中国人)居住区のことです。その広さは約9400坪、竹垣と堀に囲まれたその敷地内では、約2000人の唐人が滞在してい...
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第17回 科学技術を伝える~『農政全書』と『天工開物』

第17回 科学技術を伝える~『農政全書』と『天工開物』  「(日本との貿易で)中国人は砂糖で千パーセント儲け、オランダ人もほぼこれと同じくらいの利益を上げている」。モンテスキューが『法の精神』のなかでこう語ったように、江戸時代、鎖国政策によ...
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【コラム】中国農書と勤勉革命

【コラム】中国農書と勤勉革命  戦国時代が終わり、太平の世が訪れると、日本では人口の大爆発が起こりました。江戸時代初めには1200万人ほどだった人口が、100年ほどの間に3000万人以上にまで増加したのです。当時日本は人口の8割以上が農民で...
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第18回 江戸時代の中国語ブーム

第18回 江戸時代の中国語ブーム  HSK(漢語水平考試)という中国政府公認の中国語能力試験があります。その受験者数は年々増加しているそうですが、実は江戸時代にも中国語ブームがありました。その火付け役となったのが、岡島冠山と荻生徂徠です。 ...
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【コラム】バイリンガル狂言

【コラム】バイリンガル狂言  倭寇が猖獗を極めていた室町時代、日本の各地には、中国などから拉致されてきた人々が、労働力として駆使されていました。1420年、朝鮮から回礼使として日本を訪れた宋希璟は、日本滞在中、中国から拉致されてきた2人の人...
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【コラム】浮世草子『世間学者気質』と黄檗山萬福寺

【コラム】浮世草子『世間学者気質』と黄檗山萬福寺  岡島冠山が京都に移り、唐話の教本を出版すると、京都でも中国語ブームが巻き起こりました。明和5年(1768)に出版された浮世草子『世間学者気質せけんがくしゃかたぎ』には、こうした中国語ブーム...