第15回 唐通事

 江戸時代、キリスト教の拡大を恐れた幕府は、1635年、海外渡航を全面的に禁止し、貿易港を長崎一港に定めました。いわゆる鎖国の始まりです。
 翌36年には港の一角にポルトガル人を収容する出島が作られ、41年にポルトガル人を追放すると、平戸にあったオランダ商館をここに移しました。89年には唐人屋敷(とうじんやしき)という施設も作られ、それまで市中に散泊していた中国商人も、ここに収容されることになりました。
 この長崎で日中間の交流を支えていたのが唐通事とうつうじです。
 海外との交流で常に課題になるのが言葉の壁です。遣隋使の時代には、中国系渡来人の子弟たちが、通訳や留学生として活躍しました。江戸時代の長崎貿易も同様で、歴代の唐通事を記録した『訳司統譜(やくしとうふ)』によれば、1604年、最初の唐通事に選ばれたのも、馮六ひょうろくという中国人でした。
その後、大通事・小通事・稽古通事などの11、2の役職が設けられましたが、これらはいずれも中国にルーツをもつ家筋から任用されていました。
 とはいえ、日本で生まれ育った子どもたちに中国語を習得させるのは、容易ではなかったようです。唐通事の心得を中国語の対話形式で説いた『唐通事心得』には、冒頭こんな小言が記されています。
「いまどきの長崎の若者は、通事という虚名をかさに、本分を疎かにして、ただ遊んでばかり。漢詩・漢文どころか、中国語もろくに話せない。・・・商売人は元手があってはじめて商売ができる。通事の家にとって勉学は、商売人の元手と同じではないのか」
 唐通事の仕事は、通訳・翻訳だけではありませんでした。長崎奉行所の地役人じやくにんとして、貿易の実務や中国商人の取り締りを行なったり、長崎奉行の外交・通商上の諮問を受けたりしていました。
 唐船から海外の情報を収集し、長崎奉行に報告するのも、唐通事の大切な役割の一つでした。その報告書である唐船風説書とうせんふうせつがきは、阿蘭陀風説書おらんだふうせつがきとともに、鎖国時代の日本が海外事情を知るうえで、貴重な情報源となっていました。
 1867年、唐通事は廃止されましたが、通事たちは明治維新後もその語学力や国際性を生かし、外交官や外国語学校の教授、実業家として、日本の近代化に貢献しました。

▼出島と唐人屋敷(『肥前長崎図』かつ山町文錦堂、享和2年(1802年)より)

▼川原慶賀『長崎港図』(九州国立博物館蔵)

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