第12回 海を渡った画家~雪舟

日中交流の史跡と文化
雪舟自画像模本(藤田美術館蔵)

第12回 海を渡った画家~雪舟

 9世紀末に遣唐使が廃止されて以降、500年続いた民間交流の時代は、明朝(1368~1644年)の成立によって幕を閉じます。モンゴルの支配を脱した明朝は、海外との交流を朝貢のみに限ったため、日中の交流も勘合符(かんごうふ)という許可証を得た遣明船だけに制限されることになりました。
 遣明船の派遣は、日中間の独占貿易として、室町幕府と寺社、細川氏・大内氏などの大名が共同で行なっていました。なかでも国際貿易都市・博多を拠点とする大内氏は、この貿易によって巨万の富を得ていました。大内氏は、武家には珍しい渡来系を自称する一族で、そのためか、早くから朝鮮や中国との貿易に携わっていました。
 1467年、この大内氏が派遣した遣明船に1人の禅僧が同乗します。後年、中世を代表する画家となる雪舟です。雪舟はこの時、47歳。当時は一介の画僧に過ぎませんでしたが、この訪中を契機に才能を開花させ、86歳で亡くなるまで、旺盛な創作活動を続けることになります。
 明の都北京に着いた雪舟は、正使の到着が遅れたために、この地に半年余り滞在する機会を得ます。明朝はその間、この遠来の画僧に破格の待遇を与えました。雪舟が晩年記すところによれば、彼はここで当時の宮廷画家・李在らが伝えていた彩色や墨使いの技法を学んだといいます(『破墨山水図』自序)。
 東京国立博物館には、この李在と中国滞在中に雪舟が描いた2幅の山水図が伝わっています。
 雪舟とともに明に渡った僧は、こんな逸話も伝えています。明の礼部尚書(文科大臣兼外務大臣)姚夔(ようき)は、雪舟に礼部貢院(北京の科挙試験場)中堂の壁画の制作を依頼しました。この時、姚夔は、こういったといいます。
 「いま入貢する国は30余あるが、貴公ほどの絵は見たことがない。礼部は科挙を行うので、国中の秀才がこの中堂に集まる。その時、私は壁画を指してこういうつもりだ。『これは日本の僧・雪舟の作品だ。外国人でさえ、これほどの腕を持つのだ。お前たちも学業に励み、この域に達せよ』と」(呆夫良心『天開図画楼記』)。
 こうして、中国絵画の技法と、画家としての自信を得た雪舟は、帰国後、国宝「山水長巻」に代表される多くの名画を生み出したのです。

李在筆「絹本淡彩山水画」
(東京国立博物館蔵)
雪舟等楊筆「絹本淡彩四季山水図(夏)」
(東京国立博物館蔵)

参考資料

  1. 村井章介「雪舟等楊と笑雲瑞訢~水墨画と入明記にみる明代中国」(東洋文化研究所紀要第160号、2011年12月)→東京大学学術機関リポジトリ

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